サドの悪徳論

 サドの「悪徳の栄え」によると、財産権の起源は力の不平等であり、強者による弱者からの奪取だという。ゆえに盗みとは弱者が強者によって奪われたものを策略によって取り返すことに過ぎない。所有権そのものが盗みなんだから、法律は盗みを攻撃するという理由で盗みを罰している、と法律を批判している。

 En remontant à l’origine du droit de propriété, on arrive nécessairement à l’usurpation. Cependant le vol n’est puni que parce qu’il attaque le droit de propriété ; mais ce droit n’est lui-même originairement qu’un vol.
(翻訳者の著作権保護のため原文としています。サドの原文は人類共有財産と考えます。)

 しかしよく考えてみると所有権の起源においては、所有権それ自体が法的に確立されてないんだから、そもそも法的な侵害なんかありゃしない。弱者に対する強者の事実上の奪取usurpationがあるだけだ。それがサドの時代においては「所有権」という制度的外観をとったということなんだな。だから、所有権は元を正せば「盗み」volだと主張してるんだ。
 整理すると、「盗み」には二つの意味がある。第一の意味は事実上の盗みusurpationで、第二の意味は法的権利に対する侵害としての盗みvolだ。
 で、所有権の起源は第一の盗みなんだけど、サドの時代の「盗み」は第二の盗みになっている。
 だから法律的思考としては、法的秩序が起源後に確立した以上、起源としての第一の盗みに対する第二の盗みを罰することには、それなりに一貫性があるんだな。だけどサド的人物は第二の盗みも元をただせば第一の盗みと同じvolだから、法律には一貫性がないinconséquence と批判しているわけだ。
 
 以上から次の問が提起される。

 所有権の侵害volと事実上の奪取usurpationが同一であるというサド的人物の主張は妥当か? もしこの主張が妥当なら、サド的人物による盗みの正当化はスジが通っていることになる。
 ところで実に不思議なことに、この所有権の起源が不明なんだな。ロックの私有財産論や社会契約論が何の科学的根拠もないイデオロギーであることは誰もが認めるところだ。
 で、所有権の起源が労働だという私有財産論を批判しうる説はマルクスなんだけど、マルクスは「労働の所産」と「労働の価値」を厳密に区別してるんだな。つまり労働価値は、あくまで商品の交換尺度であって、労働の所産とは別物なんだ。労働の所産としての労働生産物は人類の共同作業(父)と自然の賜(母)との複合なんだから、これに対して所有権を主張することは、言語に対して所有権を主張するのと同じぐらい馬鹿げたことだとマルクスは言っている。ってことは「所有権」の根拠自体が存在しないってことなんだな。
 それゆえ事実上の奪取が所有権の起源だというサド的人物の主張には一理ある。公共道徳を無条件に信奉しない限り、サドへの反論は困難と思われる。

 ところでサドはスピノザを自分の味方のように言及しているし、実際、スピノザもまた公共道徳を信奉していない。
 スピノザは決して禁欲主義者ではなく、自己の本質(自己保存衝動)に基づく限り、生存に必要な快楽の追求、財産所有を能動的行動として認めてるんだな。だけど自己保存を超える財産の蓄積欲は、外部の原因に基づく受動的行動であるとしている。
 この論理をつきつめると、例えば他人の物を盗まなければ生存できないような状況では、スピノザの論理でもサドと同様に盗みは正当化されることになる。生存権を保障しない国家においてはサド的論理は正当なんだ。
 吉本隆明は失業していた頃、相談したゼミの先生から「人間は泥棒してでも食っていける」と言われて驚いたと述べていたけど、昔はエライ先生がいたものだ。終戦直後はそれが時代風潮だったのかもしれない。
 だけどサドとスピノザの違いは、サド的人物の欲望は際限がないけれど、スピノザの場合は、自己保存の範囲内という制限があるってことだな。
 つまり、ヨリ多くのお金が欲しいと思う場合、その真の原因がなんであるかは本人にも分かっていない。原因と思われるものは、概ね他者(金満家)の生活ぶりに対する比較による羨望に過ぎない。
 だけどそれは真の原因を欠いた表象であって、自己の外部を原因とする欲望であるがゆえに、受動的なんだな。貪欲は受動的感情であり悲しみだとスピノザは言ってる。自己の本質(自己保存衝動)を原因とする欲望のみが、能動的感情としての喜びであり真の幸福へ至る道であり、その範囲では盗みも緊急避難として許容されることになる。
 スピノザの論理ではそうなるはずだ。言い換えれば生存の極限状況ではサドとスピノザは一致する。
 
 ところがこの点についてスピノザは日和っているのではないか、というのが佐藤拓司著「堕天使の倫理」の問題提起だ。
 自己の生存が危機であるにも関わらず、他人を救うために自分の生命を犠牲にすることは、スピノザの言うコナトゥス(自己保存)の本質に反している。にもかかわらずスピノザは「エチカ」第四部定理72備考で反していないと述べている。
 確かに著者が指摘している箇所はスピノザにしては奥歯にものがはさまったような言い方をしていて、相当悩んでいるようだ。この論点は「エチカ」の最大の危機かもしれない。
 著者によると、コナトゥスは個物としての自己保存衝動であるにも関わらず、スピノザは中世の人間本性一般を密輸入して、人間本性の自己保存にすり替えることにより、利己的理性を社会性に結びつけたとしている。
 この点ではサドの方が一貫している、というのが著者の主張だが、その合理的一貫性は堕天使に帰着すると結論している。理性が社会的になるためには合理主義は万能じゃなく非合理も必要ということだ。
 それにしても「人間本性一般」とはニーチェのいう畜群のことだから、確かに「このもの性」を重視しているはずのスピノザにしては一貫性に欠けていてヌルイのかもしれない。いわば証明になっていないものを証明と強弁することで、スピノザは堕天使になり損ねた非合理主義者とも言える。実に興味深い問題提起だ。

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