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この記事は、2015年10月に記したものを一部改稿して、「自然との邂逅の旅 「Being SOLO」の体験をふりかえる」の詳細としてまとめた文章の前編です。

1.「朽ちた丸太」になる

1日目 (2015/10/10) の体験より
 
一歩進むごとに草花を踏みつけ、蜘蛛の巣があれば払いのけ、その「生」の営みを妨げていく。
それでも、自然の生命は、何もなかったかのように、ひたすら生き切ろうとしているように見える。
 
山道の脇にあった「朽ちた丸太」になってみた。
 
苔が生え、菌や虫が入り込み、水分を吸って、徐々にボロボロになっていく。
それは、日々繰り返される日常。苦痛でもなく、ただただ朽ちていく。
 

人の思考は「虫や菌の棲家となって、分解されて、やがて土に帰り、次の世代の養分になる。貢献しながら循環している」と考える。

しかし、「朽ちた丸太」は、次の世代のことなど考えていない。ただただ、日々朽ちている。ひたすらに朽ちているだけである。
 
「樹木としての生を終え、朽木となって土に帰ろうとしている」という見方すら、ヒトの目線であって、「朽ちた丸太」はその境(状態の変化)を意識することもない。ただ在る、ただ在り続けるだけ。
 
その根底に、自然のシステムへの意識されない深い信頼を感じる。


2.夜の暗闇と「こわい」

 ー 1日目 (2015/10/10) の夜 -

1日目夜のガイダンス後のフリートーク(ダイアローグ)の場で、「こわい」が話題になった。

月もないので、周囲は深い暗闇。この場が終われば、それぞれが、山の中を自分のテントまで戻ることになる。
場所もバラバラ、距離にし二、三百メートルはあると思う。

何を怖がっているのか。
「暗闇」、「山の動物」、「見えてはならないもの」。。。

イノシシなど「山の動物」はリアルな危険だが、相手もまたヒトをこわがる。
相手の脅威になったり、傷つけたりしない限りは概ね大丈夫。
動物は必要以上に殺生をしない。

が、人は何をしでかすかわからない。
最も恐ろしいのは人間かもしれない。

夜の暗闇・・・過去の伝聞、経験、知識、情報などが頭の中で勝手に再生されて、どんどん不安になるイメージが膨らんでいく。
それに伴って、恐怖の感情が増幅されていく。

「こわい」感情を、自分で限りなく大きく育てている。

「暗闇」も「山の動物」も「見えてはならないもの」も、「ただそこに在る」のであって、「あぁ、いるんだね」でいいのかもしれない。
人は自身の思考と感情に、自ら苦しんでいるのかもしれない。

終了後、小さな懐中電灯で足元を照らしながら夜道を進むと、草の葉の影が近づいてくるように見える。
ときどき真っ黒な塊(影)が不規則な揺れ方をして、小動物が跳ねたように見えたりするとビクッとなってしまう。

それでも不思議と「こわい」感情は湧いてこなかった。
真っ暗闇の慣れない山の中で迷わずにテントに帰りつけるかに必死で、「ただそこに在る」ものに意識を向ける余裕すらなかったのかもしれない。

「おそれ」と向き合う。「こわい」という感情。

本来の言葉の意味と合致しているかどうかはわからないが、自分自身の中では、「おそれ」という言葉を3つに分けて捉えているようだ。
 ①怖れ:自分が怯えている状態
 ②恐れ:相手をこわいと思っている状態
 ③畏れ:おそれ多いと感じている状態。



3.「雨露をしのぐ」

  2日目(2015/10/11)未明の体験


午前3時前くらいから、雨が降り始めた。

1日目夕方に急いでテントを設置して、戻ったのは午後8~9時頃で真っ暗だったため、タープもかけていない。
フライシートのない夏用の簡易テントだったので、テントの内側に水が浸みはじめる。

暗闇の中を外に出た。

今さら防水スプレーをかけても意味がないので、小さなブルーシートを広げてテントに掛け、ペグで簡単に止めて応急処置。
幸いに風がなかったので、作業にはそれほど手間はかからなかったが、全部を覆うことはできず、一部からは水が浸みてくる。

シュラフが濡れてしまうと後が厳しい。
幸いにそれまで曇っていたためそれほど寒くもないので、急いでシュラフをしまうことにした。


「雨露さえしのげれば」という言葉があるが、「雨露をしのぐ」ことの難しさに思いが向いた。

昔、山中に草庵を結んだ僧たちは、どうしていたんだろうか?

どんな想いから、そういう生き方の選択に至ったのだろうか。。。

牧草地の草泊まりのイメージと百人一首の「かりほのいほ(刈穂/仮庵)」の言葉が浮かんでくる。

ビニールがない時代に雨露をしのぐことの大変さ、草庵を作ることの大変さ、そこで食を得ること、煮炊きすることなど「生きる」大変さが「思考」の中でグルグルと巡っていく。

地面が少し斜めになっているテントの中で、カラダがずり落ちていくのに耐えながら横になってウトウトしていたら、いつの間にか夜が明けていた。

4.思考の動き意識を向ける

 2日目(2015/10/11)の体験より

何もしない手持ち無沙汰の時間が生まれる。

無意識のうちに、気を紛らせる(=逃げる)ために、「思考」や「作業」に走りがちになる自分がいる。

座って内省してみようとするが、「思考」が勝手に走り出す。
目にはいる景色や耳に届く音の情報から連想して過去のことを思い出したり、これからのことに思いを巡らしたり・・・。

せっかく日常から離れて自然の中に一人でいるのに、思考は「いま」にいることをしない。

あるいは「~ねばならないこと」を探して、行動しようとする。「テントの中に浸みてくる水の対策が必要」「せっかくだから山林をすべて回ってみたい」「撤収のことを考えて事前にできることは・・・」

「思考」が、「~ねばならない」作業は意味あることだと主張しているようだ。

しかし、今回は「作業」はしない。「作業」そのものが目的になって、内省の時間を奪っていくから。


「手持ち無沙汰」に向き合ってみる。自分の身体は何を感じているのか。

「首から上」(脳や思考)の活動よりも、「首から下」(身体)が何を感じているのかに意識を向けてみる。

意識の中でカラダをスキャンしてみたり、カラダの部分に意識を向けながら少しずつ動かしてみる。
やがて、気功体操のようなことをやっていた。

自分のカラダを感じ、大地の気を感じ、いつもとは違う場にいることを実感。

同時に「いま」にいることを感じる。気功やヨガは、案外と有効かもしれない。

◆◆ Being SOLO in Kyushu 2015 (後編) ◆◆ へ続く


自然との邂逅の旅 「Being SOLO」の体験をふりかえる
1.Being SOLOとは
2.◆◆ Being SOLO in Kyushu 2015 (前編) ◆◆
3.◆◆ Being SOLO in Kyushu 2015 (後編) ◆◆



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