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ナラティヴⅡ-5.吃音とナラティヴ・アプローチ

読書会のメモ「ナラティヴ・セラピー・ワークショップ BookⅡ」 第5回

昨年(2022年)12月に出版された国重浩一さんの「ナラティヴ・セラピー・ワークショップ BookⅡ」。
毎月1回1章ずつを目安に進めていく仲間内での読書会のふりかえりと備忘メモとして残していく。
第5回の今回は、第4章と第5章の間に設けられた「吃音とナラティヴ・アプローチ」について、2023年5月7日(日)に実施。

第4回「第4章」⇦                ⇨第6回「第5章」


0.はじめに

この読書会の記録も5回目になるが、書き残すことが心理的な負担になっているような感覚があったので、何のために、このnoteを記録するのか、と自問してみた。

出てきた答えは、学びの機会で得たことをふりかえり、自らのうちに残すため。いい時間だった感覚だけが残って、気づきや学びが流れていってしまうことがあまりに多い。とてももったいないことだと感じている。

ということで、手元メモを見返しながら、今回の読書会の対話の中で印象に残った言葉やフレーズを中心に、振り返りを行いたい。

※目次の項目は、話題に上がったものを整理するカテゴリーとして設定したもので、書籍とはリンクしていません。

1.「努力すれば、できないことができるようになる」というディスコースから生まれるもの

・「出来ないのは努力していないからだ」「甘えている」
・「がんばって治せ」という関わり方、自己責任という捉え方
・その背景として「できないと、あなたが困ることになる」
 → 努力の押しつけ&本人の苦しみ

・家庭や職場においても「なんで、できないんだ!」と怒りをぶつけられることがある
・周囲がどのように語るかが、その人に影響を与える

2.「問題が問題であって、人が問題ではない」

ここでは、「吃音」の何が問題なのだろうか?
・「吃音は努力すれば治る」というディスコースの中で、努力しても治らないことから生じる絶望?
・「治そう、改善しようとすることで、マイナスの影響が強く出る可能性がある」(p84)  → 吃音から受けるネガティブな影響こそ問題

3.「吃音」など「ネガティブ要素」を感じている人の苦しみ

・普通の人と同じになりたい願望→治そうとするけど治らない、を繰り返す苦しみ
・(吃音ではないが)「治らないのは、自分の努力が足りない。自分は甘えている、自分はダメだ、情けない」と自分を責めてきた。
・「うつ」は治療すれば治るとされるため、「治さなきゃ」となる
 →「うつ病を治した人の情報発信」は、「うつでもがんばれる人がいる。  
  自分は甘えているのかも」と苦しく追い込まれる感覚になることがある
・比べてしまう苦しみ → SNSとか見たくなくなる、辛くなる

・「努力すれば治る」は、一縷の希望の光なのではなく、自己受容を妨げる障害になりかねない。
・なくそう(治そう)とするのではなく、「共に居よう」「上手に付き合おう」とすることで楽になる

4.ナラティヴの2つの概念「ディスコース」と「エージェンシー」

・ディスコース:自分の問題だけでなく、社会のディスコースによるものも
        関係の中で生まれてくることへの理解により楽になる
・エージェンシー:自らのうちで新たな意味付けを獲得できたとしても、(社会的ディスコースによる)周囲からの影響はずっと残る。そこで、その影響に押し流されない何らかの「主体」が立ち上がってくる。

この「吃音」の場合だと、「努力すれば治るはず」という世間の視線に対して、そのままでも豊かに生きることができるという信念を持った生き方、なのか。

5.立方体言語関係図と吃音氷山図(p84)

・X軸(吃音症状)=氷山の海面上:アメリカ言語病理学のセラピーアプローチ
・Y軸(環境、聴き他の反応)
・Z軸(本人の受け止め方)=吃音の本当の問題:アサーション、論理療法などを活用してきた(筆者)

・XYZ軸も一種の因果論、氷山説の海面下へのアプローチも因果論(の応用)
 筆者は「使えるものは何でも使ってしまえ」というスタンスに見える
・システム思考によって、抽象化してコウだと決めつけることが起きやすい
 → ドミナントストーリーを強化してしまっていたかもしれない
・オープンダイアローグでは、語り手が話したいことに注目して、語られていないことは持ち込まない
・ナラティヴではZ軸が強いイメージがあるが、OW&Rやリメンバリングなどを取り入れることでY軸をコントロールしているように感じる
・ものごとを、自分が理解できること(理論など)に寄せて、納得して持ち帰る傾向がある

6.チェックアウトより

・大切なことが凝縮されている。「吃音」に限らず、いろいろなものに置き換えて考えられる。
・構造化することのパワーと同時に、それが「正解」「最終形」に見えてしまう恐ろしさ
・「上手く付き合っていく」「手放す」という感覚がいまひとつ掴めていない
・「どもる子どもとの対話」(国重浩一他)では、個別具体的な話を徹底的に掘り下げていくことで、いろいろなことにつながっていくことが見えてくる

7.余談として

●「宣言」
・「吃音者宣言」は1976年に採択されている。時代背景として「共産党宣言」が想起される。その内容はともかくとして、読むと煽情される感覚になったことを思い出す。

●「自己責任」
・自分に対して「自己責任」を用いるときは、孤独に一人で向き合う感覚になる
・他者に対して「自己責任」を求めるときは、突き放した感じがする
・いずれにしても、共にあるイメージは生まれてこない
・「自由」と対になる概念のような気もする

●「甘え」
・自分に向けられるときは、落ち込み、自信喪失、自己肯定でいない感覚
・他者に向けられるときは、やや侮蔑を伴った非難の意味合いを感じる
・「甘え」を持った自分でもいい、そういう面もあると受け容れることができると楽になる

8.所感

●自身の中での変化
・始まる前は「吃音」に関する話題が多く出る場になるだろうと感じていたが、終わってみると、「『どもり』さえ治れば・・・」を「○○さえあれば・・・」に置き換えてみると、いろいろなことがらで同じことが言えるように感じた。『お金』『学歴』『資格』などいろいろな「自分に足りないものに固執して陥る」構造は、似ているのかもしれない
・ドミナントストーリーが、リメンバリングなどによってディスコースに気づき、脱構築化されてオルタナティブストーリーへ再構築されていく流れは、U理論にも似ている印象を受けた。また、インテグラル理論などでグリーンからティールへ移行するステージで起こることにも似ている感じがした
 これも、自分の理解できることに寄せて納得して持ち帰っていることになるのかもしれないが(苦笑)
 
●ふりかえりを行っての気づき
・メモを見返して、こうしてまとめていくことで、この箇所ではこういうことを言いたかったんだなぁとリアルタイムでは受け取れなかった気付きが生まれてくる
・「比べてしまう苦しみ」から「上手に付き合う」ことへの転換において、主体の立ち上がり(エージェンシー)が起こっている。これはどのように生み出されるのか、日常の中で意識を向けてみたい



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