見出し画像

読書履歴#16_明治の出来事を振り返る

読書期間 2022年5月25日~5月31日

<<前回投稿文 次の投稿文>>
文字数:約3,500

はじめに

歴史ものが好きで良く読んでいますが、どうしても日本史の場合は幕末や戦国時代の読み物が多い印象です。

学生の頃の授業を振り返っても前半の縄文から始まってしまい、学期が終わる直前に明治以降の近代史が始まってあっさり進んだ印象で、個人的には明治の出来事に疎いな、と思っていました。

今回はたまたまダイレクト出版がキャンペーンをしており、安かったので以下の本を読んでみることにしました。

正直読みやすいかと言われれば結構「?」な本でしたが、ざっくり流れを掴むには悪くない本でした。

以下は私の備忘で、ちゃんと歴史の授業を最後まで集中して聞いてた人には面白くないと思います。

ちゃんと学生時代に勉強しておけば良かったなと反省もしましたが、大人になっても十分学べるとも実感できました。

第1章 廃藩置県

明治初期 
・廃仏毀釈
神道と仏教の分離(本地垂跡の逆)→天皇の神格化
興福寺や石清水八幡など皇室と関係の深い寺も対象となった
・四民平等、民兵採用
・明治2年〜4年 廃藩置県 
明治初期は政治に中心勢力がなく、形だけで中身は伴っていなかった
・明治2年 大久保利通の気付き
公議政治はダメ→中心勢力がない中で広く開かれた議会を持ってもなにも決まらない
薩長が中心となり政治の枢軸となる

[復刻版]大衆明治史
ISBN978-4-86622-128-1
P11~29

第2章 征韓論決裂

・明治4年 岩倉使節団
・征韓論
当時の韓国の国王 生父大院君は欧米嫌いで明治初期の日本を欧米の模倣だと蔑視していた
西郷自ら韓国に赴き、韓国から危害を加えられれば征韓論の拠り所になると考えていた
木戸、大久保は内治第一であり、征韓論には反対だった

[復刻版]大衆明治史
ISBN978-4-86622-128-1
P30~45

第3章 マリア・ルーズ号事件

明治初期の日本は、外交官が素養、力量においても充分でなかった
明治5年6月に横浜に南米ペルー国商船マリア・ルーズ号が漂着、船長はペルー国海軍大尉ドン・リカルド・ヘレラ
南北戦争で奴隷解放が起こり、労働力が不足しており支那(中国)から奴隷売買をしていた
この一件で国際間の法的トラブルまで発展したが、人道上の正義に基く行動により世界から注目される

[復刻版]大衆明治史
ISBN978-4-86622-128-1
P46~61

第4章 西南戦争

明治10年西南戦争の原因は発展する中央政府と古きを守ろうとする西郷党の間の矛盾の対立が爆発した結果(明治6年の西郷と大久保の征韓論の対立から始まった)
西郷党の敗戦の理由の一つは、相手戦力の過小評価にあった
戦争は武士がするもの、農民や町民上りの兵隊と侮ったが、精鋭な武器と近代的な作戦を前に苦戦した
西南戦争の最後は当時郵便報知特派員の犬養毅が克明に記述していた

[復刻版]大衆明治史
ISBN978-4-86622-128-1
P62~79

第5章 十四年の政変

十四年政変の原因は北海道開拓使官有物払下げ問題であり、開拓長黒田清隆は1,400万円以上のコストをかけた事業そのものを30万円で関西貿易商社に払い下げようとし、閣議で決裁を得た
この問題は猛烈に批判され社会問題に発展する中で大隈重信はこの勢いに便乗し、薩長の勢力を駆逐し、権利を握ろうとした
伊藤博文らはこれを大隈の陰謀とし、大隈とその派閥を一掃した(一種のクーデター)

[復刻版]大衆明治史
ISBN978-4-86622-128-1
P80~96

第6章 自由党と改進党

日本に議会政治の思想が訪れたのは幕末であり中国からだった
新しい概念に当時の知識旺盛なものはこれを取り入れた
こうした風潮が公議制度を条件とした大政奉還となり五箇条の御誓文となり公議所の設置と封建制度では考えられなかった改革が実現していった
しかし明治初期はそれが理想だけに終わり、薩長専制による藩閥政府の出現に繋がった理由は、当時の識者が西欧風の議会政治を本当に理解していなかった
板垣退助で有名な自由民権運動がここまで国民にとって魅力的だったのは、当時の官僚たちが威張り散らしていたことに対する反抗であった

[復刻版]大衆明治史
ISBN978-4-86622-128-1
P97~113

第7章 国軍の建設

日本陸軍創設の立役者は大村益次郎である
長州出身の大村は江戸城攻撃、戊辰戦争などほとんどの作戦で活躍
兵部省設置、陸海軍兵学校創設、兵営建築、兵器製造所の設立、陸海軍病院の設置などを訴え、一部を実現させていった
保守主義者の憤怒を買い、明治2年に死去
その後大村に代わって国軍の基礎を確立したのが山縣有朋
山縣有朋の三大功績は「徴兵令」「教育勅語」「地方自治制」
山縣有朋の徴兵令発布に激しく同意し、ドイツ式の戦法を研究したのが桂太郎
桂太郎は古くからの友人であるドイツのメッケル少佐を日本に招き、当時として進歩的なドイツの戦略・戦術を輸入した
桂太郎は陸軍管制の改革、日本式兵制の確立、鎮台の廃止、参謀条例の改正など国軍の近代化に拍車をかけた

[復刻版]大衆明治史
ISBN978-4-86622-128-1
P114~131

第8章 憲法発布

伊藤博文が欧州を訪問し各国の憲法について学んだ
岩倉具視は死の直前まで日本独自の憲法を作るべきだと忠告していた
日本国憲法の制定には明治天皇も毎週会議に参加し、寒暖を忘れて議論された
明治22年2月に帝国憲法が発布

[復刻版]大衆明治史
ISBN978-4-86622-128-1
P132~150

第9章 大隈と条約改正

安政に幕府が嫌々ながら調印した不平等条約は依然締結されていた
不平等の内容は、
1、最恵国条款:ある一国で認めた特権が無条件で他の国にも賦与される
2、治外法権:日本で犯罪を犯した外国人を裁けない
3、関税自主権:貿易の税金の決定権がない
条約改正は意外にも国内の反撥が多く、大隈重信は四面楚歌だった
明治21年に霞ヶ関の兇変で玄洋社の来島恒喜が爆弾を使って、大隈重信は片足を失った
この事件がきっかけで、外相を辞任し取り組んでいた条約改正も止まってしまった
結局明治32件7月に陸奥宗光、小林寿太郎などの活躍で治外法権の撤廃、さらに明治44年に関税の自由権を手にした

[復刻版]大衆明治史
ISBN978-4-86622-128-1
P151~165

第10章 日清戦争前期

朝鮮問題は、明治6年の征韓論に端をなし西郷一派の総退却で事はやんだが、韓国は相変わらず西洋模倣の日本を軽視し中国に頼ろうとした
中国(清)もまた朝鮮に対して宗主国の態度をとり日本を軽視した
日本の対韓策はまず清国の不合理な優越感を是正し朝鮮を独立国として認めていこうとした
明治15年7月に韓国の京城で壬午軍乱があった。これは王妃閔派に対する守旧派の不平によるもので、大院派はこの乱を利用して新日開化派を一層しようとした
明治17年12月に京城で再び甲申の乱が起こった。これは日本政府の援助を過信した朝鮮開化党の軽挙が発端となり、中国の駐屯兵と朝鮮軍隊の暴挙によって日本人にも被害者が多く出た
甲申の乱を受けて明治17年2月に伊藤博文は井上毅と伊東巳代治を連れて、李鴻章と天津談判を行う
天津条約では、日清両国とも朝鮮より撤兵する、将来朝鮮に重大変乱があって日清両国において派兵の必要があるときは互いに報告すること、など盛り込まれた
朝鮮問題を語る上で福沢諭吉の尽力も忘れてはならない(金玉匀の亡命保護など)

[復刻版]大衆明治史
ISBN978-4-86622-128-1
P166~182

第11章 陸奥外交の功罪

明治27年4月の東学党の乱(甲午農民戦争)が起こってから日清両国が宣戦布告するまでわずか2ヶ月
当時首相は伊藤博文、外相は陸奥宗光
陸奥宗光は日清戦争の結果として三国干渉という失敗はしたが終戦まではスムーズで理想的な戦時外交の好例を示したと言える
陸奥は英国とロシアの国情の相違や極東に対する利害の相違点をうまく捕らえて対処した

[復刻版]大衆明治史
ISBN978-4-86622-128-1
P183~200

第12章 三国干渉

明治28年4月に清国李鴻章、日本国伊藤博文とで下関条約が締結され、日清間に平和が成立した
三国干渉の黒幕は露国蔵相ウィッテであったが一方で日本聯合艦隊に対して、露国の極東艦隊必ずしも優勢でなく、単独干渉には自信がなかった
ロシアは英国、ドイツ、フランスに干渉を呼びかけたが、英国はロシアへの脅威もあり日本への干渉はすべきでないとして参加しなかった

[復刻版]大衆明治史
ISBN978-4-86622-128-1
P201~218


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?