ふと思い出した父親のこと
こんにちは、Qnoir青山でフリーランス美容師をしている小川泰明です。
11月だというのに季節外れの暖かさですね。
木々や葉っぱも色づく気が起こらないような変な気候です。
最近の小川はと言いますと、上下デニムでの出退勤を夏も貫き通し、ようやく快適になってきた日々なのですがちょっと困ったことがありまして。
実は育成待ちジージャンが絶賛渋滞してまして、、デニムジャケットの上にデニムジャケットを羽織るという禁断のデニムオンデニムオンデニムで出退勤をしている毎日です笑
来る日も来る日も上下デニムのおっさんでして、家の近くの高校に毎朝登校してくる高校生の皆さんからは絶対にその存在を認知されているかと思われます。。
時折変な目で見られているような気がしなくもないのですが、、ただただデニムを育てることに邁進している変態と化している最近の小川です。
さて、みなさんお久しぶりです、夏以来かな?お元気されてらっしゃいましたか?
今日は小川の身の上話です。
僕の父親のお話になります。
もうそろそろ語ってもいい歳になったんじゃないかなと。
幾分暗めのお話が出てくるかもしれませんが、最後までとにかく明るい小川でお送りして参りますので安心してくださいね。
ではでは参りましょうか。
実は、僕は父親とはもう25年近く会っていません。
およそ25年間、ただの1度もです。
会ってないどころか、電話越しに声を聞いたことすらありません。
今どこで何をしているのかも、そもそも生きているのかさえも知りません。
僕が15歳の時、父と母の別居が始まりました。
それは突然の出来事というわけではなく、すでに小学生の頃から父と母が会話をしている姿を目にするということがほぼなくなっていました。
あるのは時折夜中に怒鳴りあっている姿だけ。
子供が寝ているからと思って夜中に喧嘩するんでしょうが、子供はみんな知っているんですよ。
別居に際し、「通う高校に近くなるから」というただそれだけの理由で僕は母の引っ越し先について行き、父の住む実家を出ました。
それ以来、僕は父親に会っていません。
両親が嫌いでした。
自分たちの勝手な理由で子供たちを振り回しやがってと。
早く1人で生きていける力を持った大人になりたい、ただそれだけを願って毎日を過ごしていました。
無力な自分をあれほど恨んだことはないです、まあ言うて15歳ですからね。
それから数年が経ち、両親は姉と僕の2人の就職が決まった後に、正式に離婚しました。
我々への思いやりだったのでしょう、子供たちの就職に自分たちの身勝手が影響してはいけないという。
女手ひとつになりながらも、思春期の気難しい息子と真正面から向き合ってくれた母親。
会うことも話すこともなくなったにも関わらず、高い学費の東京の専門学校を卒業させてくれた父親。
あれだけ嫌いだった両親に、今は頭が上がりません。
健康に育ててくれたこと、成長を見守ってくれたこと、彼らなりの精一杯の愛情を注いでくれていたこと、そのすべてに今は感謝しています。
とりわけ母親に対しては、言葉にできないくらいの大きな感謝と畏敬の念で溢れています。
盗んだバイクで走り出さなかったのも、心のひとつも解り合えない大人達をにらまなかったのも、縛ることなく、逃げ込む夜など必要ないように、自由にさせてくれた母親の存在があったからです。
僕にとって母親以上に尊敬する人はこれからもこの先も、きっと現れることはないでしょう。
そんなわけで僕が山口に帰る時は母親の元へ帰るだけで、父親とはもう長いこと会っていないのです。
僕の記憶の中の父親は、
お酒が好きな人でした。
家の中でも外でも、よく飲む人でした。
タバコ臭い人でした。
繋いでもらった手は、いつもタバコと石鹸の臭いが混ざっていました。
よく寝る人でした。
休みの日も寝床からなかなか起きてこない、そんな人でした。
家族との時間よりも、外での付き合いを優先する人でした。
学校の行事やその他諸々は、すべて母親に任せっきりの人でした。
家族旅行はもとい、家族みんなで出かけた記憶もそんなにたくさんはありません。
そんな父親の姿にいつしか母親は嫌気がさし、我慢の限界がきたんでしょう。
子供だった僕には、きっと知る由もないことがたくさんあるんだと思います。
父親の苦労も、母親の苦悩も、僕ら子供たちへの想いも。
僕もすっかりいい歳になりました。
今ならほんの少しだけど、当時の父親の気持ちもなんとなく理解できるんですよね。
学歴は全くなかった父親でしたが、仕事は一生懸命する人でした。
文字通り家族みんなを養ってくれました。
甲斐性だって欲しかったでしょう。
体も疲れ果てていたことでしょう。
どこかのボタンのかけ違いが、いつしか修復不可能なまでのほころびを生んでしまったんだなと、今なら理解をすることができます。
家庭での関わりは母親と姉だけで、幼い頃から父親と深く関わったことがなかった自分は、年上の男の人と接するのがひどく苦手でした。
学校の先生や先輩、部活のコーチ、職場の上司、年上の男の人はみんな苦手でした。
年上の男性とのその距離感に戸惑い、どこか心を開けない、甘え方もいじられ方も分からない、実のところ幼少期から30歳になるくらいまでずっとそんな感じでしたね。
このちょっとしたトラウマは、自分の元へ通って頂く年上の男性のお客様方のおかげで、少しずつ小さくすることができたんじゃないかと感謝しています。
父親を恨んでるとしたらそのくらいです、もうちょっと男の先輩から可愛がられるような後輩になりたかったかな笑
歳をとるというのは、本当にカドが取れて丸くなっていくんですね。
僕がなりたかった美容師になれたのも、一緒に生活をしなくなったにも関わらず、経済的な支援をしてくれた父親のおかげだと、今はちゃんと思えるようになりました。
いつか父親の髪を切ってやれればな(髪が残ってたら、、)そんなことをふと思ったりもします。
いや、自分もお酒をやめたことだし、もうお互い向こうに逝ってからゆっくりと呑み語らいながらの散髪、それでもいいかなと思ったりもします。
うん、むしろ、それでいいんじゃないかな。
ただ、父親がまだこの世界で生きてくれているなら、幸せな毎日を過ごしていってほしいと心から思います。
多かれ少なかれ、どんな家族にもさまざまなドラマがあることでしょう。
僕の境遇が不幸なものとも思わないし、特別なものだとも思いません。
さまざまな親子の形があって、いろんな家族の形がある。
それでいいんじゃないかな。
家族の幸せを誰よりも願っているのは紛れもなく家族だということは、変わりようのない真実なのだから。
つまらない長尺の身の上話に、最後までお付き合い頂きありがとうございます。
親父、僕も大人になり、あなたが大好きだったお酒とタバコを覚えて、あなたと同じように溺れて、そして全部辞めましたよ。
僕はあなたとは違う形で、家族を大切にしていこうと思っています。
いつの日か、また会いましょう。
一部引用 : 「15の夜」 / 尾崎豊
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