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必死に考えた意見はぶつけないほうがいい

 何かと対立の多い青春時代だった。
 親を含む大人たちと口論になることが多く、そしてほとんどの意見を足蹴にされてきた。高校生当時の嫌いな言葉は「思春期だから」と「まだ若いから」。必死に考えた意見が聞き入れてもらえないのがそんな理由なのもまた、悔しくてしかたなかった。
「こっちは5まで考えて4がいいって言ってるのに、そっちは2までしか考えてないで2しかないって言ってるじゃんか!」
 いつもそう訴えた。
 経験に差はあれど、思考力が今より劣ってたとは思わない。けれどいくら言葉を尽くしても、そもそも4の発想がない人に4のことを理解してもらえなかった。そのうえ、思春期だからそんな発言をしてるとさえ言われて。
 どうしてなんだよ‥。どうしてわかってくれないんだ!
 考えてるはずの自分の言葉が反発ばかり生んでしまう。敵を生み、敵と認定されてしまう。悔しくて部屋に戻って泣いて「次は、もっと考えよう」といつも思った。
 5まで考えて伝わらなかったものが、10考えても伝わらないことは、今ならわかる。でもそのときの解決策はそれだけだった。どうすればいいかわからなかった。
「いつかあのときは思春期だったからと後悔するようなことなら今言ってないから!」
 その叫びが、残念ながら自分の思春期だったようにも思う。でもいつも本気だったし、本気の人に会いたかった。鼻で笑わないでほしかった。

 伝わらなかったのは大人にだけじゃない。
 高校生のとき、同級生の部活の責任者に帰りのマクドナルドで「練習をこういうふうにしたらいいんじゃない?」と提案していたら、その人は話の途中で突然、テーブルに突っ伏して動かなくなった。会話のボイコットだった。
 何言ってるかわからねえよと言われたことも何度もある。こんなに順を追って説明してるのに伝わらないのが、不思議でたまらなかった。

 必死で考えたことが人と違ってしまうみたいだった。
 変でうれしいと思ったことはない。奇をてらおうとしてないのだから。
 ただ、変と散々言われてきたから「普通」については人一倍考えてきた。たくさんの客観視を手に入れようとしてきた。そうして手に入れた複数の視点で見たみんなは、それぞれに変わっていて変に見えた。
 だけど「多数派」という意味ではいつも敵わない。
 でもそもそも多数派であるなら必死に伝える必要がないのにな。大事だと思ったことが少数派だから必死で伝えてるのにな。今でもそう思う。

 わかってもらえないのはいつものこと。
 大事だと思う意見ほどわかってもらえない。
 だから自分みたいな人に会ってみたかった。会ったことがなかったから、会って、そんなに間違ってないよって言ってほしかった。


ーーーーーー



 大学生になり、4年で研究室に配属になった。
 大学院に進学する人が多い中、就活組は僕を含めたった数人。だから、仲良くならないでおこうと思った。
 就活を理由に週1だけ顔を出せばいいことになっていたけど、仲良くなれば「なんで来ないんだよー」と連絡がきて面倒になるに違いない。
 もともと何度もやめようとした大学だった。
 おかげであまり友達を作ってこなかったし、同時に配属になった同級生も知らない人ばかり。ちょうどよかった。
 きったない研究室。どうせあと1年の仲。このままやり過ごそうとした。

 が、間違って仲良くなってしまった。なぜか好かれてしまった。
 ときどき顔を出すと「おー安原じゃん! 元気かよ! ゲームやろうぜ」という流れになる。あれー計画と違うんだけどなと戸惑いつつも、なぜか居心地の良さを感じ始めていた。
 そして先輩ともそんな感じになった。
 配属直後にペアになった先輩だった。ズバズバ言う人だから、すぐに馴染んだことを周囲は少し驚いていたけど、僕はその人が結構好きだった。ファッションを愛していて「夏は1枚しか着ないんだから、Tシャツはいいものを着たほうがいいよ」と教えてくれた。

 そのとき、就活と並行してやっていることがあった。
 暗記系より理数系が好きだから進路を理系にしてきたけど、もしかしたら理系や研究職が合っていないのかもしれない。第一志望じゃないからと、この大学をずっとやめたかったけど、もしかしたら第一志望の理系大学でも合っていなかったかもしれない。そう疑い始めたのが大学3年の9月だった。
 じゃあ、何がしたいんだろう。
 そこで、首をかしげながら拾い上げたのが「表現がしてみたいかもしれない」という感情だった。決断とは呼べないぐらいの小さな希望だった。もしかしたら偶然自分みたいな人に出会ってこなかったのではなく、本当にいないのかもしれない。
 いないのなら、あいてる、のかもしれない。
 だけどなにで表現するんだろう。音楽は好きだけどすごい人がいすぎて自分にはとても。と遠慮して、何もしないうちに就活の時期になっていた。
 これで就活がうまくいっても「本当は表現が」とか理由をつけてやめてしまいそうな気もする。それなら両方頑張ってみよう。就活も表現もどっちも頑張ってみよう。自分の中で少しでも抜きん出てるなら音楽を使ってみよう。ちょうど、大学生活がつまらなくて始めた真似事みたいな作詞作曲が、面白くなり始めてきた頃だった。
 そして6月、就活をやめて、表現をとった。
 決意した瞬間「これから茨の道をいくんだ」と鼓動が強く体を揺らしたから、座っていたソファから落ちてしまいそうだった。
 でも次の日、目が覚めて起き上がると動揺が何もなく、地面にスッと立っている感覚がした。ずっと不確かな場所にいたことを、そのときに知った。
 なんだ、ここに来たかったんじゃん。そう思えたのがうれしかった。

 そしてそのことを先輩にも伝えようと思った。
 研究室で先輩を見つけて、話したいことがあるんです、と伝えると「じゃあ外行くか」と中庭まで出てベンチに腰かけて、実は、と話し始めた。
 実は、少し前に表現がしたくなって、就活と両方頑張ってたこと。就活をやめて表現を選んだこと。今まで就活があったから週1にしてもらってたのを、今度はこっちを頑張りたいから同じくらいのペースで来れたらと思ってること。
 話していても軟弱な若者の発言という感じがした。「甘いよ」とか「研究は来いって。大学生なんだから」と言われる可能性もあった。
 少なくとも「音楽って大丈夫かよ」と苦笑いされるとは思っていたし、僕だったら「とりあえず聞かせてみ」とプロでもないくせに言っていたかもしれない。
 やっぱり下手に仲良くならなければよかった。
 そうすればちゃんと伝えようなんて思わずに済んだ。
 就活を続けてることにして、勝手に顔を出さなければよかった。
 わかってもらえないのはいつものこと。なのにいつも勘違いしてしまう。
 話しながら、恥ずかしさが水位を上げていった。
 そして先輩は、僕の話がひと通り終わると、にんまりと悪だくみをするような顔でこう言った。「へー! すげえな。頑張れよ。研究のことは、いざとなったら俺の実験データ全部あげるから」

 
 実際、その先輩は夜中に「安原ー、今から実験だぞー」と連絡してくることもあったし、研究発表も自分の実験データでやった。でもそんなことはどうでもいい。背中を押してもらえたことが、こんなにうれしいこと。無査定で、すごいスピードだった。
 仲良くなるってこんなに伝えるのが楽なのかよ。
 そのあと研究室に戻って同級生に伝えたときも大体同じようなリアクションだった。「すげえじゃん。頑張れよ!」
 本当は、うれしいというよりきょとんとしていた。どうしてこんなにわかってくれるんだろう。曲を聞いたこともないくせに。変だよ。
 仲良くなるってこんなに楽しくて、楽だったのかよ。
 仲良くなって、取り入って、わかってもらうなんて卑怯なやりかただと思ってたんだよ。訳もなく。



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 それまで、考えが一番大事だと思ってた。
 伝え方のことは考えたことがなかった。つまり、いつも怒鳴ってた。
「こっちは5まで考えて4がいいって言ってるのに、そっちは2までしか考えてないで2しかないって言ってるじゃんか!」
「どうしてわかってくれないんだよ!」
 顔面に意見を投げつけて「喰らえ!」と言っているようなものだった。
 でも、正しくても、怒っていいわけじゃない。
 自分に非のある遅刻や提出ミスでも、怒られると、恥ずかしくなったり腹を立てたりする。素直に反省する方がめずらしい。実際、有無を言わせないやりかたでは「じゃあもういい!」と思考を放棄されてしまうこともあった。
 いくら相手が未熟だと感じても、というか未熟だからこそ伝え方についてはもっと考えなくちゃいけない。そういう点で僕はとても未熟だった。考えたことのない意見を聞くこと、そして受け入れることは、そんなに簡単なことじゃない。
 そんな簡単なこともわかってなかった。
 みんな知っていたのかな、こんな楽な方法。誰も教えてくれなかったけど。みんな知っていたから、上手に付きあっているように見えたのかな。
 それ以降、人と付きあうときもエッセイを書くときも「こんなやりかた人としておかしいよ。もっとちゃんと考えたほうがいいよ」とは言わなくなった。
 仲悪くなるのは簡単だ。仲良くなるには力がいるのと、ものすごく思うようになった。
 

 意味のわからないことを言ってる人がいたら確かに腹が立つ。
 未だにそんなこと言ってるの? 自分のことばかりじゃん、と思う。
 けどそういうときこそ、仲良くなって、取り入ってから「でもこうじゃないですかー」と冗談みたいに伝える。「お前が言うんならそうかもしれないな」と思わせたら成功だ。裏説得だよ。
 その人に対してしたいのが「攻撃」なのか「伝達」なのかは考えたほうがいい。
 伝達の場合、攻撃はしないほうがいいし、攻撃の場合、も攻撃はしないほうがいい。
 仲悪くなるのは簡単だ。
「そんな簡単なこともわからないんですか?」
 と言われたら、やっぱり腹を立ててしまうもんね。



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 ある仕事先にはじめて行ったとき、受付の人にその日の作業を報告するように言われていたので、帰りに受付に寄って「こうこうこうで、こう思ったので、こうしました」と話していたら「こんなに丁寧に報告してくれる人はじめてです‥」と感嘆している様子だった。
 次の仕事の日、その受付で挨拶をすると今度は別の人が「この人はすごい人だってみんなで話してたんです」と伝えてきた。えええ。そんなことないですと返したけど、まんまとその仕事場が好きになった。
 もともと、希望してた場所とは違い、遠くてめんどくさいと思っていた仕事場だったのに、行くのが楽しみになって、会えるのがうれしくなった。
 そしてそれが、作戦だとしてもすごいと思った。
 仮に全員に言っていたとしても、好きにさせているのだから問題ない。
 たった一日で何でそんなに、と思う反面、たった一言二言で僕のほうも、本当はよく知らないその人たちへの信頼を、背伸びするような高さの場所に置いていた。


 研究室の人たちがなぜか好いてくれたのも、もしかしたら作戦だったかもしれない。
 でも、だとしたら何の問題があるんだろう。
 もし仲良くならないでおく計画が成功していたら、僕のいないうちに陰口を言われたり、逆にいる間は無言で対応されていた可能性もあった。噂が回って「あいつ音楽やってるらしいぜ」とYouTubeのページを開かれて笑われてた可能性もある。
 本来はそういうひどい人たちだったということじゃない。自分の態度がそうさせていたかもしれないということ。
 でも好きになってくれたおかげで、おたがい居心地が良くなって、そのうち作戦のことを忘れられたのなら、元が作戦だったかどうかなんてどうでもいいことだ。
 と思った。作戦じゃないと思うけど。と思わせた時点で成功。


 以前、いつも突拍子もないギャグをするホリケンさん(ネプチューン堀内健さん)が、ある対談で「いいこと教えてあげようか」と小声になる場面があった。ちょうど対談相手がなんらかの悩みを打ち明けた直後のことだった。
「バカのふりをするんだよ。バカのふりができると『あいつはそういうやつだから』って思ってもらえるようになるんだよね。〈かわいげ〉って言い換えてもいいかもしんない。それがあれば、少しの失敗は怖くなくなるよ」
 タイミングも内容も、オリジナルなギャグをぶち込めるホリケンさんが、そっと秘密を教えた瞬間だった。
 実はこの対談は、おそらく存在しない対談。夢で見たのだ。
 だけどなぜか何度も見たせいで、妙に記憶に残るシーンだった。

 ある師匠のもとに弟子入りした二人の若者。
 じっくり考えてから行動に移すタイプと「えーどういうことですか」「全然わかんないっす」とすぐに聞くアホ。
 数年後に力をつけているのは、師匠にも呆れられていたアホのほうかもしれない。トライアンドエラーの数が圧倒的に違うからだ。
 真面目だけど素人の判断力で考え続ける人と、師匠の判断力を使ってすぐに行動する人。師匠に嫌われないぎりぎりのところで人懐っこく質問を続けたアホは、アホじゃないかもしれない。しかもそれが、作戦だったりするかもね。
 バカのふり、アホのふり、かわいげ。
 仲良くなって、取り入って、わかってもらう。

 今でも、相手への好き嫌い関係なく意見を聞くべきだと思ってる。
 仲良くなくても、かわいげがなくても、聞く耳は持つべきだと思ってる。
 でもやっぱり、例えば「もっと服装気をつけたほうがいいよ」と言ってきたのが尊敬する人か嫌いな人かで、受け取り方はだいぶ変わってしまう。同じ意見でも、違う意見になる。意見だけを抽出するのは、実はとても難しいのだそうだ。
 学生のときに理解されなかったのは、残念ながら年齢のせいもあったと思う。年を重ねるにつれて明らかに理解される度合いが増していった。できればこの文章を15才が書いていても同じように読んでほしいのだけど、それもなかなか難しいのかもしれない。
 だから、僕はまず怒鳴るのをやめればよかった。
 嫌いだとか年齢のせいでわかってもらえないと口調を強めたら、もっとわかってもらえなくなる。
 何より、仲良くなったほうがずっと楽で、楽しかったのだ。
 結局、僕もみんなも「ちょっと仕事はできるけど愛想の悪い人」より「少し仕事はできないけどちゃんと挨拶をする人」のほうが好きで、ついついたくさん話してしまう。会話量が増えれば、必然的に理解度も深まる。
 考えがちゃんとしてるとか仕事ができるだけでは、悔しいけどたりてなかったのかもしれない。



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 先に肯定する作戦。
 嫌いな人とむしろ仲良くなる作戦。
 正直、してもらうばかりで、自分からはまだまだ難しい。
 でも仲悪くなったり、不機嫌になられたら厄介だということを、元々みんな知っていたから「早く風呂入っちゃいなさい」や「少しお金が必要なんだけど」と言うタイミングを計っていたんでしょう。

 生みたいのは反感ではなく、納得だ。
 自分の、人とは違う、だけど大事な意見を、わかってもらいたい。
 それと攻撃は相性が悪い。
 怒鳴られるのが好きな人なんていない。

 じゃあ頭のいい人ほど考えなくちゃいけないんじゃん。
 ときどきそう思うこともある。
 考えるのに加えて、伝え方まで気にしなきゃいけないんだから。
 不機嫌な人は不機嫌なまま、気分で「うるせえな」と威嚇してくる。ズルいじゃん。
 なんでこっちがその機嫌のことまで考えなくちゃいけないんだ。そう思うことも、本当は結構ある。
 だけど、頭のいい人ほど考えなくちゃいけないんだろうな。
 伝わらなかったら0と同じ。反感を生んだらマイナスと同じ。
 どんなにいい曲でも、鼓膜を破るほどの大音量で聞かせたら嫌われるし、どんなにいい絵でも、顔にバンと押し付けたら嫌われる。
 生みたいのは反感じゃない。
 曲を再生したのは、絵を持ってきたのは、わかってもらいたかったからだ。いいですねって言ってほしかったから。

 仲良く楽しく話すことが、結局楽だということ。
 意見は正面からぶつけるものじゃなくて、隣に座って「これちょっと食べてみてください」っておすすめするものだったんだろうな。
 ふん、でもこれは裏説得なんだよ。バカだな。
 そうやって作戦で近づいた相手が笑顔で「これおいしいですね」と言ってくる。すると「でしょう?」と思わずうれしくなる。その瞬間、好きになったのはむしろこっち側かもしれない。
 人の好き嫌いなんて、そんなものなのかもしれない。

 
 仲悪くなるのは簡単だ。
 仲良くなって、わかってもらう。
 それは下手(したて)に出ることじゃない。むしろ先手を打っているのだ。
 無査定で、高速で、先に好きになっているのだ。
 仲良くなったから好きになるんじゃない。理由を探していては、あのスピードにはならない。
 好きになってから、仲良くなる。
 不思議な気がするけど、意見はそこからだ。



【このエッセイが動画になりました】

熱と発見というシリーズです。YouTubeです。

■真似事みたいな作詞作曲が面白くなり始めた頃の一曲

 ファニー・ファニー

■このエッセイについてちょっと話してます

■仲悪くなるのは簡単だ。仲良くなるには力がいるの

■何を伝えるかより、どう伝えるかのほうが大事

□他のエッセイはこちら
https://note.com/yasuharakenta/n/n24a3c79136c4

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