【超ダイジェスト版】グラデーション アンド ノーピープル(うまく生きれない人の救い方)
この文章は上記エッセイの超ダイジェスト版です。
もっと読んでもらいたくて、こうなりました。
それから、不適切発言がたくさん出てきます。ご了承ください。
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1. 結果的に孤独になってしまうやり方
前に「アイヌ」のことを「あ、犬」とネタにした芸人さんが炎上してたことがあった。
アイヌの歴史には、そうやって蔑まれてきた歴史があったらしい。
だけど「あ、犬」というのは、調理実習中に佐藤さんに「ほら、さとう!」と言うのと変わらない。そのくらいのつもりで言ったはずの芸人さんが「許されない」とか「アイヌの歴史を知れ」と怒られてることに、とても違和感があった。
どうして教えてあげないんだろう。
実はこの炎上は「あ、犬」という言葉を使わずに批判がくり返されていた。不適切発言だからだ。
だけど、具体的な理由に触れなければ「アイヌに触れるとなんだかわからないけど怒られる」という印象だけを与えてしまう。床に落ちた部分だけを捨てればよかった食材を「ばっちいから全部捨てとこう」と思わせてしまう。
すると、アイヌについて触れるどころか、考えてくれる人が減っていって、それが進めば、文化はおそらく衰退してしまう。
どうでもいいことに人は怒らないから、不適切発言だと怒った人たちは、アイヌや歴史を愛しているんだと思う。
だけどその結果「アイヌってやばい」と思わせてしまう。そのことには、気を回さなくていいんだろうか。
きちがいという単語も、こじきという単語も、発言されるたびにメディアで謝罪された。
「ただいま不適切な発言がありました。訂正してお詫びします」
だけど理由を教えてくれない。
きちがいはどうしてダメで、気が狂ってるはどうしてよくて、こじきがダメならホームレスはどうなのかとか。
黒人とか外人とか、同性婚とか多様化とか、フェミニズムとかルッキズムとかも、なんかすぐ誰かが怒ってる気がする。「センシティブ」とか言われて。
怒られることと怒られないことの差が、詳しくない人からは全然わからない。向こうの常識がこっちまで届かない。
なのに、誰も穏やかに理由を教えてくれない。
だから、頭のいい人は「黙る」という選択肢を選ぶようになる。
だって「あ、犬」みたいな、ただの言葉遊びで猛烈に怒られたりするんだから。なんか危なそうなジャンルには触れないでいたほうがいい。
その「黙る」ということが「危機管理能力」になっていく。
そして「アイヌってやばい」みたいに、考えてくれる人が減っていくと、やがてその文化に触れること自体が危ないような、発言するだけでハラハラするような感じになっていく。
つまり起こるのは「タブー化」だ。
センシティブって「大事」って言い換えられるんじゃないんだろうか。
どうでもいいことに人は怒らない。
民族のこととか、肌の色のこととか、性別のこととか。
だけど激怒したら新たな関心や新たなファンを潰してしまう。
だからもっと穏やかに、きちんと知ってもらうほうを優先すべきだったんじゃないんだろうか。
知らないことを失敗するのは当たり前なんだから、知ってる側がもっと余裕を持って接してあげるべきだったんじゃないだろうか。
大事がゆえにタブー化を起こして、結果的に孤独になっていってしまうやり方は、きっと選ぶべきじゃないんだと思う。
2. 過激な賛成派
何かに賛成なら、過激な反対派になるといいって聞いたことがある。
逆もそう。何かに反対なら、過激な賛成派になればいい。
例えば、ハロウィンが嫌いなら、いっそコスプレをして車ひっくり返したりすればいい。環境活動家がムカつくなら、これは環境活動だと言って名画にスープをぶちまけばいい。
ただ、分かると思うけど、これを意図的にやるのは難しい。
たいていの場合は、意図しない過激な賛成で、反対派の味方をしてしまうことばかり。
身近なところで言えば、引退式で隣の同級生が大号泣してたらつい冷静になってしまう感じ。
さっきのタブー化も、ほとんどこれが作用してる。
自分たちは冷静のつもりかもしれないけど、誰かが一つの発言で責められてる様子は、その外側の「その分野に興味のなかった人たち」からは過激な非難に見える。「アイヌってやばいね」「またうるさいやつらがw」みたいに思われてしまうのはそのせいだ。
ひどい発言や対応に腹が立つのは分かる。
つい暴力的な言動や行動を取りたくなるのも分かる。本当に分かる。
だけどその結果、タブー化が起こって、結果的に避けられたり、むしろあざ笑われたりするのは、本意じゃないと思う。
だから、なんとか頑張って我慢したい。その一瞬の我慢ができるかどうかに、今後の展開は大きく左右されるのだと思う。
3. しくみを分かってもらうのがいい
犬が差別発言になったのは、当時は今より犬や猫に対して下等というイメージが強かったからかもしれない。だけどそんなこと、現代の「普通の人」にはわからない。
そもそも、悪口には「身近な言葉」が使われるのが普通。ダメージを与える必要があるからね。日本人は「ファックユー」と言われてもピンと来ない。犬という簡単な言葉だったから、当時のアイヌの人にもダメージを与えてたのかもしれない。
だから、普段タートルネックを着てる人のことを「タートルがさ」って言うような、悪口とも意識されないような身近なレベルから、あらゆる差別用語は生まれてくるんだと思う。
ちょっとした言葉遊び。のつもり。
みんな言ってしまうし、みんな思いついてしまう。
佐藤さんのことを「砂糖」と言うのも、アイヌの人のことを「あ、犬」と言うのも、どっちもただの言葉遊び。
砂糖も犬も、どっちもただの単語。
だけど「あ、犬」のほうは、文化的に見下したり、蔑(さげす)んだりして使ってきたから「差別発言」になっていったんだよね。「タートルがさ」が過激になればいじめになるだけ。見下すように使い続けたら「差別発言」になるだけ。
最近「女」って言わなくなってきたのもそういうことだと思う。「女性」のほうが単語として優秀というわけじゃない。「女」が使われてきた文脈に冷たいものが多かっただけ。
だから、言葉だけを取りあげて「あー! あ、犬って言っちゃいけないんだー!」「きちがいって言ったぞこいつ!」みたいなことをしてても、何も変わらないと思う。
貧困を理由に事件を起こした人だけを捕まえても、貧困自体が解決されなければ、同じような人がまた出てくるのは当たり前。その失言した人を排除しても、同じような発言はきっとくり返される。
だから「しくみ」を分かってもらうのがいいと思う。
しくみが分かれば、現時点で差別発言だろうが、そうじゃなかろうが、「人を見下したり蔑んだりすること自体」がいけないんだって分かる。セクハラもパワハラも、体力か権力がある側がしてることだから、それみたいなことはいけないんだなと分かる。
どの単語を言うか(What)ではなく、どう言うか(How)のほうが、ずっと大事だと思う。
だから、間違えて発言をしてしまった人には、その「しくみ」ごと教えてあげるのがいい。「あ、犬」っていうのは、ただの言葉遊びに思えるけど、アイヌの人たちが蔑まれてきた歴史に通じてしまうんです。そう教えればいいだけ。
だけどそれを、激怒しながら伝えたら、たとえその発言(What)が正しくても、その言い方(How)のほうを人は見てしまう。
4. コミュニケーションははじめから人を傷つける可能性がある
大人なのに、人前に出るのに。
問題発言をした人にそう思うこともあるかもしれない。だけど、大人だから完璧とか、人前に出るから完璧っていうのはないと思う。
あ、犬みたいに、ただの言葉遊びのはずが実は差別発言だったり、前まで普通に外人って言ってたのに、いつのまにかあまりよくない言葉になってたりすることがたくさんある。20年後は歯ブラシなんかが不適切発言になってるかもしれない。
それに、過去に家族にトラブルがあった人は、家族の話題を振られるのがとても苦手かもしれない。それは恋愛だろうが受験だろうが同じ。
でも、外見からでは、その人が何に傷ついてきたかはわからない。あなたも、僕が何で傷ついてきたかを知らない。
だからコミュニケーションははじめから、人を傷つける可能性を含んでる。
でも、人を傷つけて怒られたりしそうだからと言って、コミュニケーション全部をタブー化するわけにはいかない。ずーっとみんなで黙りつづけてるわけにもいかない。
じゃあ、ある程度の失敗には、もっと寛容でいなきゃいけないんじゃないか。(かんよう:許して気にしないであげること)
やり直しのきく社会とか、失敗していいんだよとかよく言われるけど、よく言われるということは「現時点でそういう社会じゃない」という証明でもある。
「あ、犬」と言うだけであんなに怒られるんだよ。
知らなかったのに。死ねとか、殺すって言ったわけでもないのに。
やり直しのきく社会という言葉の効力を失わせるには、本当にやり直しのきく社会が必要だ。
だからある程度の失敗には、おたがいに寛容でいたい。
コミュニケーションは、自分だって失敗するかもしれないから。次に失敗するのが、自分かもしれないから。
5. ただの言葉のグラデーション
以前、顔を黒塗りにして黒人の真似をした番組が問題になった。
実際、それをリアルタイムで見ながら、あ、やばいかもと思った。だけどそれは、センシティブだからやばいという「危機管理能力」が働いただけ。
本当は、どうして黒塗りがいけないのかの理由を答えられなかった。
好きなものは、コスプレが分かりやすいけど、真似したくなる。服装、髪型、言葉使い。もしそのキャラクターが黒人なら、黒塗りをしたくなる気持ちは分かる。日焼けでは時間がかかるし、あのかっこいい黒色にはならない。
ずっと、黒塗りの何がいけないのかを考えてた。
そしたら、白人か黒人の人が顔を黄色く塗って「I’m Japanese!」と僕の真似をしたら、確かに気持ちよくはないかもしれない、というところまでたどり着いた。そこでようやく、この問題を少し理解できた気がする。
じゃあ、ものまねでセロテープを使うのは?
じゃあ、ものまねでペンを使って眉を太く塗るのは?
じゃあ、ものまねでカツラを被るのは?
じゃあ、ものまねで声色を変えるのは?
また少し前「身長170cm以下の人は人権ないから」という、女性プロゲーマーが生配信中にした発言がとんでもない炎上を生んでいた。
だけど、僕はその発言を見て、そんな人いくらでもいるけどなと思ってた。好きなタイプを聞かれて「まず身長が高くて」と言う人はたくさんいるから。なのにこの炎上は、数日つづくほどの大きな炎だった。
じゃあ、身長170cm以下の人は終わってるだったら?
じゃあ、身長170cm以下の人は「人として」終わってるだったら?
じゃあ、身長170cm以下の人はありえないだったら?
じゃあ、身長170cm以下の人は恋愛対象にならないだったら?
でもこれは、みんな同じことを言ってるんだよね。
どれも「身長低い人は好きにならない」と言ってるだけ。ただの言葉のグラデーションであって、つまり言葉選びの問題であって、実は内容の問題じゃなかったんだと思う。
黒塗りとものまねの境界だって、とてもむずかしい。
仮に「ものまねはいいけど黒人はだめなんだよ」って言ったら、それ自体が差別発言になってしまうから。
だから、境界ってそもそも曖昧なものなんだと思う。
しかも、人によっても違うし、時代によっても変わっていく。
そのあいまいなものに激怒したり、炎上させて追放したりするのは、やっぱり変なんじゃないかと思った。
6. 境界の淵
それでも激怒やクレームは止まらない。
どれも怒られそうで怖いから、さっきのタブー化みたいに「黒塗りもものまねも全部禁止しときましょう」という発想になっていく。
メディアのコンプライアンスが厳しくなるのもわかる。
だけどそれは「人は争うものだからいっそ全滅しときましょう」というくらいダサい思考なの。
人を傷つけるのはいけない。だけど笑いもなくならない。
感情は、境界の淵で揺さぶられるものだから。
ボーダーを攻めない笑いは、実はあまり存在しない。
別に、境界をはっきりさせたいわけじゃない。
というか境界はあいまいにしか存在しないから、それは不可能だ。
はっきりと制定されたルールだって常に、人や時代に対応して変化していく可能性を含んでなきゃいけない。
境界をはっきりとさせられないということは、その淵で必ず、誰でも失敗するということ。
それならやっぱり、失敗には寛容でいるのがいいんじゃないかと思う。
7. 翌日に所属団体を解雇になった
身長の発言をした人は、その翌日くらいに所属団体を解雇になった。
昔好きだったミュージシャンも、触らないセクハラみたいなことをして、翌日に除名になった。
僕はこの、即日解雇が苦手だ。
ダメなことはダメだとは思う。
だけど次の日って何がわかるんだろう。そういう信頼度だからそういうことをしちゃうのでは、とさえ思う。もしかしたら心に不安やトラブルがあったかもしれないのに、そこにはちゃんと気を配れてたの? とも思う。
コミュニケーションはやがて誰かを傷つけるかもしれない。次に失敗するのは自分かもしれない。失敗は、もはやランダム要素なんだと思う。
なのに、失敗した人を排除して見た目だけクリーンにする感じは、僕にはとても怖い。
SNSも普及して、監視はよりいっそう厳しくなる。どこからでもどこにでもアクセスできる自由さを手に入れたはずが、なぜか息苦しさのほうが増していく。だから本当は、ケアだっていっそう手厚くしなくちゃいけないはずだ。
不満をもらせない職場の雰囲気が、もしかしたら個人の失敗を誘発してたかもしれない。けど「その人なら辞めさせましたんで」と、なんでもないような顔をする。その個人だけを、きれいにナイフでくり抜くことなんてできるんだろうか。
8. 一緒に生きていくこと
結婚は、理想かもしれないけど、何が起こっても引き受けていく覚悟みたいのが必要だと思ってる。一緒に生きてれば、幸せ! 幸せ! だけではいられない。
この人とだったら、未知のマイナスだって、くぐり抜けていける。
そう腹をくくること。
団体も、企業も、一緒だと思ってる。
簡単に首を切るくらいなら、そんなにすぐ採用しなければいい。
ミスしたやつ切って追加要員、とは真逆の発想が、本当は必要だとずっと思ってる。
前に、知り合いの高校生が友達と線路で写真を撮って退学になった。
そんなの絶対にいけないし、責められるのも仕方ないと思う。
高校生になりたてだったその人は、氏名から学校名からクラスまで特定され、ネットで晒されて、笑われた。もしこの人が気を病んで死んだらどうするつもりなんだろう、と僕は思ってた。
何より嫌だったのは、その私立高がその人をすぐに退学させたことだ。
私立は評判が大事だからね。でも、なら学校業をやめちゃえばいいと思う。やめちゃいなよ。
教育って、見放さないことだと思ってる。
さっきのプロゲーマーもミュージシャンの解雇も、大人だという点では、納得せざるをえないところも、なくもない。だけど教育機関が真っ先に見放すってなんなのって今でも思う。
どうして教えてあげないんだろう。
どうして理由も教えずに炎上させたり、話も聞かずに次の日に解雇したりするんだろう。
大人だって失敗する。
本当は、見放さないことは、誰にだって必要だと思ってる。
9. 大事なことはミスをしないことじゃない
どれだけ完璧な人も、接する人と、生きる時代が変われば、その完璧は使えなくなる。
コミュニケーションはどうしても失敗する可能性を含んでる。
つまり、完璧が存在してると思ってる時点で失敗だ。
みんな失敗する。だから大事なことはミスをしないことじゃない。
大事なのは、ミスを致命的なミスにしないこと。
ケンカしたら謝ればいい。レジ前で困ったら「少し待ってもらえますか」って言えばいい。
高速道路を間違えて、焦ってカーナビやらスマホやらをいじったら事故にだってなる。いったん安全なところに車を止めて、調べ直して、また乗ればいい。
子どもにだって、失敗しないように囲いつづけるのではなく、「失敗するからね!」と警戒しつづけるのでもなく、失敗しても笑顔で帰っておいでよ、という姿勢のほうが大事だと思う。
ミスをしないなんて不可能なことが、大事なはずがない。
失敗を指摘しつづけたり、逆に失敗しないことを褒めつづけたりすると、ノーミスを求めて、完璧主義になる。
完璧主義って、なんだか完璧でよさそうだけど、実際は人のミスに厳しくなる。自分がされてきたように、不完全につらく当たったり、笑ったりしてしまう。一方で自分は、挑戦を極端に嫌うようになる。挑戦しなければ、ノーミスのままでいられるから。
だからちょっと宿題を忘れたくらいで、もう学校に行きたくなくなったりする。
そのミスは致命的なミスじゃないんだよ。
そう態度で示していれば、失敗するのが怖くなくなる気がする。
完璧主義の氷が溶けて、外の世界に出るのが怖くなくなる気がする。
10. 気にしないでくれたことが、本当はすごくうれしかった
高校のときの頑固な感じの数学の先生。正直あまり好きじゃなかった。
当時の僕は寝坊ばかりで、その先生の4限の授業さえ、さんざん遅刻や欠席をくり返した。
決して授業数の多くないその授業。さすがに落としてるかもしれなくて、ハラハラしながら通知表を開くと、ひとつも遅刻や欠席が記録されてなかった。
遅刻も欠席も一度や二度じゃない。だから記録ミスだとしてもありえなかった。
なるほどね。面倒くさがりの先生だったもんね。そう自分に言い聞かせた。
だけど許してもらえたことは、ぜったいに忘れない。
もしその先生がきちんと記録をつけていたら、僕はその先生をもっと嫌いになったと思う。自分勝手としかいえない。だけど自分の不出来を許してもらえたことが、ううん気にしないでくれたことが、本当はすごくうれしかった。
怒りは連鎖して、復讐は復讐を呼ぶけど、何も連鎖するのは復讐だけじゃない。
面倒が理由だったとしても、許してあげれたら、その人も次は誰かを許したくなる。
そうやって許される次の誰かが、自分かもしれない。
11. 大人は馬鹿だから、反省するのが恥ずかしいと思ってるから
自分や、自分の一部と思うくらい大事なもの。
それを馬鹿にされたり、軽く扱われたりしたら、腹が立つのも当然。
だけど大人は馬鹿だから、反省するのが恥ずかしいと思ってるから、強い攻撃をすると余計かたくなになって、孤立して、さらに暴走してしまう。もっと過激な発言や行動を選んだり、もしかしたら自殺を考えたりする。
馬鹿なことをした人は馬鹿だったけど、「いいんだよこいつは攻撃しても」という発想からの攻撃だって馬鹿だと思う。それは「170cm以下は人権ない」とか「〇〇人は見下していい」とかと全く同じ発想だから。
特に、匿名の人たちが生んだ、誰の責任でもない炎は、対象を灰にするまで意地でも燃えつづける。責めることと、きちんと知ってもらうこと。こんなに簡単な二択を、集団で、簡単に間違える。
それから、匿名の人に批判されると、その人は外に出られなくなるよ。
町の誰もが、その匿名の人の可能性があるから。
そして部屋にこもって、孤独感を強めて、世間が許せなくなって、起死回生の手段として、他人か自分への大攻撃を選んでしまうかもしれない。
12. そして誰もいなくなった(ノーピープル)
誰でもするはずの失敗を許してもらえず、ただ知らなかっただけの失敗を教えてもらえず、誰かが徹底的に打ちのめされていく。
みんなやめてしまうよ。
打ちのめされていく人の横で、応援してるアイドルが震えてる。応援してるミュージシャンが震えてる。次は私かもしれない。次は俺かもしれない。何を発言しても爆発するかもしれないし、過去の何かが拾われて爆発させられるかもしれない。
さっきのタブー化と同じ。さっきのコンプライアンスと同じ。
活動してれば何かが爆発するなら、いっそ活動をやめよう。そう思う人が出てきても、全然おかしくない。
別の誰かを攻撃しながら「でも君は特別だよ」と区別してたかもしれないけど、いつ誰だって打ちのめされて消されていく世界の存在自体に、うんざりしていくと思う。横でバイト仲間が店長に怒られてて、何も思わない人はいない。
そうやって、やめてくのは有名人だけじゃない。
生きてればいつか叩かれるような社会なら、いっそ生きるのをやめよう。そう思う人が出てきても、全然おかしくない。
失敗に寛容な雰囲気さえあれば。
そのミスは致命的なミスではないよ、と示してあげてれば。
これらはすべて起こらないはずのことなのに。
でも現時点では、いくらでも起こってる可能性がある。ただ、残念ながら消えてった人の声は聞こえない。
自信があるんだと思う。強く叩けるのは。
「そんなこともできないの?」「こんなことも知らないの?」
だけど、その自信で、誰かが徹底的に打ちのめされて、世界の雰囲気が悪くなってるのなら、その自信はもう交換時期が来てるのだと思う。
現代の救いの手とは、何かをしてあげることじゃなくて、その手を止めてあげることだから。
13. 多様性の時代や、やり直しのきく社会は、実は当人の問題じゃないんだよ
無知な人、無関係な人、不慣れな人、新人。
失敗したり「なんだこれ?」と疑問に思ったりするのは、たいていこの人たち。
その人たちの意見を、たいていの先輩たちが「でもそういうものだから」と言って踏みつける。するとその場所は「そういうものだから」が力を持って、同調圧力が強くなって、新人には息苦しい環境になる。
だけど、革新的なアイディアは、常識からは出てこない。
その場に不慣れな人の「これって変だと思うんですけど」という意見は、しくみを根本から見直してくれる大事な意見かもしれない。その部屋に住む人には、その部屋の匂いには気づけないんだから。
生きててね。死ぬんじゃないぞ。
あらゆる歌や表現がそういうメッセージを送ってる。その一方で、馬鹿な人が徹底的に打ちのめされていく。こいつは根性が弱いからな、としごきつづけて、そしてその人が死んだりしたあとで、ふと我に返ったりする。例えば過労死。
死ぬなというメッセージを送るんなら、死なないと伝わらないメッセージはなくさなきゃいけないと思う。その人が「弱いだけ」だとしても、話は聞いてあげるべきだったのだと思う。
多様性の時代や、やり直しのきく社会は、実は当人の問題じゃないんだよ。
むしろ「当人以外」が騒ぎたてないで、怒らないで、聞いてあげるところからスタートするんだと思う。問われてるのは「当人以外」の聞く姿勢であって、お前ら勝手に堂々と生きろよ、お前ら勝手にやり直せよ、ではないんだと思う。
あの人が本当に弱いだけだったとしても、それなら弱い人でもやっていける環境をつくったほうが、自分たちにだってずっと過ごしやすい環境になったはずだから。
14. だけど、一度もはみ出さずにいることなんてできるんだろうか
はみ出さなければ、失敗することも、怒られることもない。
頭のいい人が、危機管理として黙っておくのも分かる。
だけど、一度もはみ出さずにいることなんてできるんだろうか。
他人をぶったことのない子どもはいないと思う。ご飯を投げたことのない子どももいないと思う。最初からちょうどいい分量のLINEを好きな人に送れる人もいないと思う。
ちょうどよさとは経験しながら調整していくもので、一度もはみ出さずに境界線を知ることは不可能だ。
勇気のない人たちが境界線のずっと内側でわいわいしてる間、ある意味で馬鹿な人たちが線を超してしまうこともある。でもその線はその人が超えたから可視化された線でもある。
最初から見えてたようなふりするなよ。
食べられるキノコが分かるのは、誰かが毒キノコを食べてくれたから。伊達メガネをかけようと思えるのは、誰かがメガネをファッションにしてくれたから。ある意味で馬鹿な人たちが「ここまでは大丈夫だってさ!」って教えてくれたおかげで、そこまで行けるだけ。
はみ出してくれる人がいてくれるおかげで、世界は広がっていくし、ルールは見直されていく。
15. とってもラッキーなんだから
セクハラという言葉もないころ、上司のセクハラに驚く新入社員に「我慢するものだよ」と教えてあげていた女性の先輩もいたと思う。「そういうものだから」と教えてあげることでしか、目の前の人を救えなかったのかもしれない。
だけど「やっぱり変です」「こっちに行きましょう」とはみ出してくれた人たちが世界を変えてくれた。
だから残念だけど、現時点で「そういうものだから」と言う人に、未来を見る力はない。でもだからといって、はみ出す人を怒ったり、圧力をかける理由もない。
だって、自由にやらせて、もし社会が動いたら、それは自分にとってもラッキーなんだから。
16. はみ出しアリ
アリの行列には、必ずその列からはみ出すアリがいるそうです。
餌を見つけるとアリは、蒸発するフェロモンを出して巣に戻るので、そのフェロモンに従って行列ができていくのだけど、その列をわざわざはみ出すアリがいるらしいんです。
でも進化の過程で、そのアリは排除されてこなかった。なぜか。
それは、そのアリが「より近道」を見つけてくれる可能性があるから。
フェロモンに誘導されているだけのアリには、それが異常な遠回りだとしても気づくことができない。電車で150円で行ける場所に700円もかけてるかもしれない。だけどはみ出したアリが近道を見つけてくれると、そのほうに「より蒸発されてない」濃いフェロモンが残るから、今度は自然とそっちに行列が作られていく。
はみ出しアリが排除されなかった理由は、必要だから。これが答え。
忘れちゃいけないのは、700円のルートに行列を作っていたアリが「常識アリ」だったということ。「なんか長くないですか」と文句を言うアリに「700円かかるものだからね」と指摘しつづけてきた、大多数のアリだったということ。
そのアリは、将来的に70円のルートが見つけられるまで「150円かかるものだからね」と言いつづけるかもしれない。馬鹿と常識はいつだって入れ替わる。
17. うまく生きれない人の救い方
はみ出してくれる人がいると、世界は広がっていくし、ルールが見直されていく。
優秀な人だけの集団は「700円かかるルートでいかに動くか」みたいなことに特化してしまって、意外と非効率になる。逆に、出来の悪いやつがいてくれると、その枠自体が見直されて、効率がケタ違いによくなることもある。その出来の悪さは「現時点でのルール」での出来の悪さだからだ。
はみ出してくれると線は可視化される。動いてみると線が見えてくる。
それは経験でもそう。最初に就職した職場がつまらなかったときに初めて、自分のやりたいことが見えてきたりする。
だから、ルールを点検させてくれるはみ出す人は、余計なものだと思われてたものは、実は重要でしかない。つまり多様化は、みんなにとって助かることでしかない。いろんな価値観がプラスされていく中で必ず、もっと息がしやすくなるような点検が行われる。
多様性の時代や、やり直しのきく社会は、そういう意味でも当人の問題じゃないんだよ。
大きなメリットが自分にも待ってる。
今の自分の価値観で叩き潰したり、はみ出しアリを排除してクリーンだなんて、そんなもったいなさすぎること、しないほうがお得だと思う。
危機管理能力を身につけない馬鹿にしか救えないこと。
触ると菌が移るからと孤立させられてた同級生に話しかけて、その人の思い出を変えてくれるかもしれない。「アイヌってやばいんでしょ」みたいなタブー化なんて関係なく「アイヌっておもしろいですねー」って突っこんできてくれた人のおかげで、人がまた気にせずに集まってきてくれるかもしれない。
危機管理能力のなさが、その無謀さが、そういうものだからとか同調圧力とかタブーとか、そういうものに穴を開けてくれる。見えない息苦しさに、空気を運んできてくれる。
18. 世界を変えるような革命
だけど、はみ出す行為には必ず失敗がつきまとう。
はみ出す人の冒険は「そうは思わないんです」という失敗を恐れない強い信念で始まるわけではなくて、むしろ、どうしてもその場にいられない弱いメンタルが冒険を選ばせてる可能性がある。
別に誰かのためなんて思ってなかったし、みんなから「勝手にはみ出した変なやつ」と思われてしまうのも、仕方ないのかもしれない。
でもその人がいてくれるおかげで、世界を変えるような革命が起こる可能性が、どうしてもある。その恩恵をみんな、ありったけ受け取ってる。
弱いメンタルの冒険者を叩きつぶして、元の列に並ばさせるのは簡単だ。
だけど本当に必要なのは、アイディアを聞いてみてあげて、いったん自由にやってみなよって送り出してあげて、失敗して帰ってきても、そのミスは致命的なミスじゃないんだよって言ってあげることなんじゃないだろうか。
はみ出さないと見えない線のことは、誰にもわからない。
その馬鹿な人が世界を広げてくれたら、ルールを見直させてくれたら、救われる対象は、怒ってた人も笑ってた人も含めてまるごと全員になる。どうしてもその場にいられなかっただけで、独占のためにはみ出たわけじゃない。
その人を、さすがにもう馬鹿だと笑ったり、自己責任だと見放したり、無知がゆえの失敗に激怒したりは、しないでいいよね。
言語道断なんて、言ってあげないでいいよね。
あらゆる物語にははみ出す人が登場する。世界ははみ出す人を待ってる。
あとはみんなに、怒らない準備ができているかどうかだ。
このエッセイは「グラデーション アンド ノーピープル(うまく生きれない人の救い方)」の超ダイジェスト版です。
本編には、以下のようなテーマも出てきます。
・生理休暇みたいな話が進まないのも、性をタブー化しすぎてるせい
・学校側がいじめの問題を隠蔽しようとするなんて当たり前なんだよね
・部下や後輩のミスに怒るのは、上司や先輩のミスだよ
・自信ないほうがずっといいと思う
・間違えましたは負けじゃない
・そもそも、知らないってそんなに悪いことじゃないと思う
・「アップデート力」のほうが重要
・流れを断ち切れる人が、本当にえらい人だと思う
・マナーやルールは、たいてい理由をうしなっていく
・美容師は居残りをして練習をするもの、アイドルは恋愛をしないもの
・「ねえ、まさかなんとも思わず殺した豚とかを食べてたわけではないよね?」
ぜひ読んでほしいのですが、この超ダイジェスト版自体も本編のつもりで、楽しく書いてきました。こんなにダイジェストにできるなんて!
良かったら、広めていただけるとありがたいです。
[参考にしたもの]
・「感情は、境界の淵で揺さぶられるものだから。」
指揮者のニコラウス・アーノンクールさんがオーケストラのリハーサル中に「美しさとは、失敗との境目にあるんだと思う」と言っていた動画からの影響です。 https://youtu.be/7W0wSIDX64I
・「はみ出しアリのはなし」
単純な脳、複雑な「私」(池谷裕二・著)
[エッセイの元となったラジオ]
・タブー化と危機管理能力と愛【音だけラジオ 2021年7月23日】
https://youtu.be/47nDsOx1JQQ
・言葉のグラデーションと契約解除【音だけラジオ 2022年2月18日】
https://youtu.be/3KPawHDwgF0
[関連エッセイ]
・「大事なのはWhatよりHow」
https://note.com/yasuharakenta/n/n434f3ae05999
・「ノーミスを求めて完璧主義になる」
https://note.com/yasuharakenta/n/nf8b2559e3eb1
・「一緒に生きていけば、幸せ! 幸せ! だけではいられない」
https://youtu.be/c3o9PfaRHrg
https://ptpk.exblog.jp/26881093/
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