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衝撃の邦楽プレイリスト - Part2:LIVE編

今聴いて心を打たれた邦楽ライブ編。10曲選んでみました。邦楽の特長として「(日本人であれば)歌詞が直接伝わってくる」ことがあります。今の僕が聞きたいメッセージ性を持ち、且つライブならではの演奏者の肉体性と即興性/聴き手との身体的な共時性を感じられた映像を選んでみました。

かつてロックミュージシャンは「若者の代弁者」と呼ばれた。今はどうなのだろう。誰でもSNSで発信できる時代に「代弁してもらうこと」にどれだけ意味があるのでしょう。代弁者が多様化し、むしろ”代弁してもらうこと”に慣れているのかも。受信者と発信者が簡単に入れ替わるなら、代弁者はより身近になる。その中で「ミュージシャン」が果たしていた”代弁者”としての役割はYouTuberをはじめとするインフルエンサーが担っている気がします。彼らはよりリアルタイムに、「今の物語」をタイムラグなく伝えてくれる。その中で「音楽ならでは」の体験で「今・現在の自分」を切り取り、描写し続けているのがMoroha。ある特定の瞬間に向き合い、切り取った言葉は本来の演歌(弁士による演説歌)に近いスタイル。

”ある時代”の空気を代弁するかのようなcero。音楽的探求心の深さと、ボーカルの頼りなさが胸を打ちます。「渋谷系」にルーツを持つとされ、そうした文脈で語られることもありますが僕にとってはMoonridersの意思を継ぐバンド。「音の響き」に対する”面白いことやってやろう”的実験精神を感じます。メインカルチャーや”多数派”に対する抵抗としてのカウンターカルチャーではなく、個々人と向き合い、聴き手がそれぞれ見つける”サブカルチャー”の空気感。ポップスというのはフック”引っ掛かり”の集合であり、そのどれかで聞き手の心を引っ掛ければいい。滑らかなようでいびつな形の引っ掛かりが多い音楽。

GEZAN、2014年までは”下山”。大阪のバンド。メッセージ性が高い大阪フォークシーンの”異物感”を感じさせるバンドでもあり、真っ向から音でメッセージを伝える思想家。”下山”の由来として本人たちから語られたことはありませんが、個人的にはニーチェの”ツァラトゥストラかく語りき”を想起する。山に籠って悟りを開いたツァラトゥストラは山を下り(下山)、人々に話を伝えようとするが聞いてもらえない、道化・狂人として扱われる。本来弁士というのはそういうものかもしれない。だからこそ自らの声に耳を傾けてもらうために音楽を使う。

孤高、YMOの後、日本のテクノシーンの中で特異な存在感を発揮した平沢進。そのままどんどん変異を遂げつつけていった境地。こちらは”下山”せず、山の上の仙人という趣ですが、世俗に対する興味・好奇心があり、それを純粋に手のひらの上で転がしてみているのかも。多様な入力(情報や音楽形態)を取り込み、並列・直接につなげて自分の音楽として出力する。ある意味でものすごく外界に対して開かれた音楽であり、ただそれが「(私には)このように映るのだ」という内的世界を真摯に表現した結果、”山の上からの宣託”にまで至った音楽。

羽田陽区のネタ”ギター侍”が本当に歴史上に実在したら、きっとそれは遠藤賢司でしょう。純音楽家と自称。純音楽というのは劇伴歌などに対比して”純粋な音楽(だけ)を楽しむ”、つまりもともとはクラシック音楽(中世~近世のオーケストラで演奏される欧州音楽)のコンサートなどを指す言葉なので、そういう意味では今のライブとかCDはそれ自体が独立しているので純音楽なのですが、遠藤賢司を聴くと”ああ、純度が高い音楽というのはこういうものだなぁ”と気付く。”音楽の周辺情報”が付与されていなくても、切り離された純粋な音楽の存在を感じます。永遠のエール。

まさかこんな映像が残っていたとは。幾多の伝説を生み出したJAGATARAのステージ映像。最盛期のステージ映像があまり残されていないバンドですがこれは当時の様子を生々しく伝えています。日本人の中にどうしてこういうビートがあったのだろう。なぜかファンクとかアフロビートは心に響く。根源的なものなのかもしれません。衝動をどう伝えるか、洗練された劇薬。結局彼らは自らの身を焼き尽くし、メンバーの幾人かは鬼籍に入ってしまいましたが、JAGATARAが作り出した世界観は不滅。僕は同じ強靭なビートをGEZANに感じます。あと、OKI DUB AINU BANDにも。OKIはJAGATARAを通過したというより、違うルーツ・プロセスを経てたどり着いたと思われるのが興味深い。エマーソン北村(両方のバンドに参加しているキーボーディスト)の影響もあるのだろうか。

大槻ケンヂ25歳。日本ロックの特異点である筋肉少女帯。”イワンのばか”はギタリストの橘高文彦が「イングウェイマルムスティーンを(手数を減らして)コピーしてみた」と語ったネオクラシカルな曲だけれど、そこに大槻ケンヂの世界が乗ることで特異な世界観を生み出しています。「イワンのばか」のイワンが、僕はカラマーゾフの兄弟の次男だと思っていたんですよ。カラマーゾフの兄弟はロシアのドフトエフスキーが書いた長編小説で、父殺しの疑惑が欠けられた長男と、エリートだが厭世的な次男、信心深い3男の3兄弟が出てくるのですが、次男の名前がイワン。ずっと厭世的でどこかシニカルだったイワンが物語の最後に本音を長々しく語る場面があり、要約すると「なぜ神が実在するならこの世にはどうしようもない悲劇があるのか」ということを問う。「神とは何なのか」と。僕はそれを指して「そんなことを考えるなんてばかな奴だ」という話かと思っていたんですよ。この問いを「イワンのばか」で切り捨ててしまえるなんてロシア人は凄いな、と。だけれど「ばかのイワン」という別のロシア寓話があるんですね。人の言うことを疑わないイワンという男の寓話。なぁんだ。

向井秀徳。NUMBER GIRL、ZAZEN BOYSの中心人物。Morohaと近いフォーマットながらこちらはより抽象的で感覚的な世界。説得力を支えているのが向井自身が生きてきた時間と存在感。世界は矛盾に満ちているけれど、アメリカに禅を広めた禅僧の鈴木大拙はアメリカ人の妻を持ち、アメリカで生活しながら禅を続け、東洋と西洋:敗戦国である日本人の米国生活:等様々な矛盾・葛藤にぶつかりながらその場その場で選択して生きていく、その過程こそが禅であり、矛盾を統合することが人生だと説いた。選択の一つ一つの論理ではなく、選択の総体としての存在こそが総て。この話が好きなんですが、この映像は断片的な言葉とフレーズが一人の個人によって統合され、音楽となって紡がれていてそれを思い出す。一つ一つの動き、表情、言葉、存在。

”鬼気迫るライブ”という単語の例として提出したいぐらい。大森靖子。この時のテンションは凄い。なんだか(普段に比べて)やけにむくんでいるし、老女のようにも幼女のようにも見える。正と負の感情、コントロールされた/コントロールされていない音楽。ライブは舞台であり統合芸術である。あらゆる手段を使って感情を開放し、声も暴れているようでギリギリのラインで制御されている。時に目を背けたくなるほどスリリング。

本編は”死神”で終わり、こちらはアンコールまたは後夜祭ということで。最後の曲を何にしようかと思いブルーハーツの”青空”にします。前回の記事は最後が”さよなら人類”だったのですが、今それでプレイリストを終わるのは意味が怖い。音楽は風景を変えていくし、同時に風景によって聞こえ方が変わります。この曲を聴いて改めて思うのはブルーハーツってリズム隊がしっかりしている。グルーヴがきちんとあるからボーカルがある程度ルーズでもスリリングになる。ローリングストーンズ的なルーズさが良い味を出している。

今回の全曲をつなげたプレイリスト。

前回の記事はこちら。こちらも衝撃の10曲です。それでは良いミュージックライフを。

ヘッダー画像 by amandazi photography


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