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メディアとデザイン─伝え方を発明する(9) 群れとネットワーク


このシリーズは2009年に書いた連載を再録したものだ。2005年にweb2.0が提唱され、2006年にはTwitterがサービスを開始した。そういったことの影響がかたちをあらわしてきた時期だったのだろう。インフルエンサーという言葉がまだなかったのか、“口コミ操作”などと書いている。フィルターバブルやエコーチェンバーといった言葉もなく、のどかだった。毎回、学校のことに触れていたが、この回はそこから少し外れている。


群れとネットワーク

子どものころ、たくさんの親戚が近所に住んでいて、おじやおばの家にあそびに行くことは特別なことではなかった。日常的に行き来はしていても、盆と正月には改まってあいさつをする、そんな環境で育った。

親類縁者だけではなく、近所の人とのつきあいも濃かった。いわゆる町内会や子供会での交流があり、家族ぐるみのつきあいも盛んだった。ぼくの子ども時代はちょうど高度経済成長期とシンクロし、核家族化が進み、もう大家族とよべる家庭は少なかったように思うが、まだ「向こう三軒両隣」という言い回しが成立する社会だった。大阪の下町で育ったせいかもしれないが、人々が地縁血縁で結ばれていたことは間違いない。

家からさほど遠くない学校に通う高校時代までは、クラスメートとは地縁で結ばれている。「地元の友だち」などといい、たまにしか会わなくなっても、すぐに昔に帰って遊ぶことができる。
大学になると日本中から学生が集まってくる。したがって学生たちは地縁で結ばれているわけではないが、キャンパスが地縁効果のようなものをもたらすのだろうか、同じキャンパスで過ごす時間は一生の友情を育てる時間でもある。

人間とて猿の仲間である。やはり「群れ」をなす。一説によると人間の「群れ」の単位は200人程度だという。おおよそ200人を超えるあたりで疎遠になる人が出てくるそうだ。たまった名刺の中である程度連絡が継続している人の数を数えれば、やはりそれくらいなのだろうなと思う。

郵便や電話など空間を超えて人のコミュニケーションをつかさどるシステムはこれまでもあったが、インターネットによってそれが一変した。特にWeb2.0以降に顕著である。おさらいの意味で書いておくと、提唱者であるティム・オライリーはWeb2.0を「送り手から受け手へ一方的に情報が流れる状態から、送り手と受け手が流動化し誰でもがウェブを通して情報が発信できるように変化したもの」だと提議している。

そのWeb 2.0によって、情報技術から情報サービスへと主役が代わった。ブログやSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)がその代表格だが、このふたつはまだ完全に送り手と受け手が流動化しているとは言い難い。カリスマブロガーの存在や口コミ操作がそれを証明している。
映像や写真の共有サービスであるYouTubeやFlickrもあまり事情は変わらない。しかし、2006年に登場し、わずか3年で利用者が5000万人を超えたといわれるTwitterは、まさに「送り手と受け手の流動化」と呼ぶにふさわしいメディアになるかも知れない。

Twitterは「つぶやき」と呼ばれるごく短いことばをお互いに購読し合うサービスである。特定の人をフォローすることでその人の「つぶやき」が自分の購読タイムラインに表示される。興味ある情報源や著名人らしき人(本人かどうかわからない)もフォローするが、当然、まず友人知人をフォローする。そうすると単につぶやくだけでなく、ことばのやりとり、つまりコミュニケーションがはじまる。

これまでの遠隔コミュニケーションは、地縁や血縁を超えて新しい「群れ」をつくるパワーは持ち得ていなかった。携帯電話の家族割りサービスがそれを物語っている。しかし、Twitterのようなコミュニケーションサービスには、大学のキャンパスのように新しい地縁効果をもたらす可能性を感じる。「たった今」という時間が「今ここ」という場所に変換されているのだ。

そこでは、自分が所属する群れが複数あるという事態が起こっている。ほかの人も然りなので、群れが複雑に重なりあっている。いうなれば、複数の群れの中に個人が遍在している。

1ヶ月間欧州を放浪した卒業生は、毎日Twitter上に出現したが、同時にひとり旅の孤独も味わっていたと思う。来月留学に旅立つ卒業生ともいつもと変わらないコミュニケーションが続くだろう。彼女が渡航先で新しいコミュニティに入ったとしても、今の仲間との親密さは続くはずである。
ぼくが昨日何をして過ごしたかを知っているはずのゼミ生も、学校で会ってそのことを話題にすることはない。地縁が土地を離れることによって、現実とのリンクが希薄になる。いや、逆に濃密になるのか。

しかし、こういう波はすぐに去っていく。最近の学生はすでにブログにもミクシィにも熱心ではない。いうまでもなくコミュニティの形成には時間がかかる。一過性のブームでつくれるものではない。とはいえ、ヒトの「群れ」の在りようが変わりつつあることも否めない。サービスが廃れてもこれは止められないのではないか。
学生作品が時代を映すことは以前に書いた。今年の卒業制作はコミュニケーションを問うたものが多い気がする。また追って紹介します。(2009年10月執筆)


追記:
巻頭写真は、まさに地縁を象徴するオーリトリア・リンツ市の子ども向け施設にある地図の部屋


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