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努力という才能

お久しぶりの投稿です。
今日は思ったことをそのまま書いてみようと思います。

正直自分がnoteのアカウントを持っていたことさえ忘れかけていたこの頃、久しぶりに書いてみようと思った理由。
やっぱり私はインスタグラムの写真でもTikTokの動画でもなく、文字での表現が好きなのです。

そして、飽き性な私がずっと好きでい続けられたことが、言葉で伝えること。

自分を振り返りながら日記として残してみようと思います。


先日、信頼している女社長さんに言われたこと。

「やすこちゃんは、何かひとつ極めてきたことってある?」

何も思い浮かばない自分がとても嫌でした。
何ひとつ自信を持って人に言えるものなんて何もないし、秀でている才能なんて何もない自分。


「頭がよくて、何でもそつなくこなせて人並み以上には仕事ができるんだと思うんだけど、人の倍頑張ってきたことや努力し続けてきたものってある?」

現状、ないんです。
いや、あるんだけど、それを人に誇れるほどの努力とは呼べない気がして言えませんでした。
それは人に言われる前からずっと自分でも思っていたことで。

自分では人より仕事ができるなんて思っていませんが、仕事ができなかったからこそ一生懸命覚える努力をして、教わったことをノートに書いたら何度も見直して。同じことを2度は聞かないように、家に帰ってからも復習をして。

でも、10年前に努力と思ってしてきたことは、今の私にはルーティンのあたりまえとなり、もはや努力とは呼べないのかもしれないと思いました。


じゃあ、努力って何ですか?
人に努力と言わしめるものがない自分には価値がないですか?

それは、否だと思うのです。

私は、頑張れない自分が嫌だから、その時その時で頑張れるものを探してきた。夢中になれるものを探してきたし、探す努力はやめなかった。人生に対していつも一生懸命だったし、今ももがいているじゃないと。

それが生きるということじゃない、と。


職歴も一貫性のある職種ではないし、たしかに一芸を極めたものはない。
だけど、こうやって31歳になった今でも、母になった今でも、ちゃんと自分のためにもがいて苦しんでいるじゃないと。

もう数年前になりますが、子どもの保育園の運動会で、歌を披露したお母さんがいました。ドラムを披露したお父さんもいました。どちらも中学と高校の同級生です。

私はそれを見て、「こうやって自分を表現できるのっていいなぁ。かっこいいなぁ。」と思いました。
あの時に感じた何とも言えない悔しさは今でも覚えています。

私には自分を表現できるものがないと感じてしまったからです。


それからというもの、自分らしさとは何か、どうやって表現したらいいのか、ずっともがいてきました。
その答えが、きっと文章なのだと思います。

思いの丈をそのまま書き記す。
本当は恥ずかしいです。何もできないと思っている、何者でもない自分が偉そうにブログを書くなんて。

だけど、みんなもともと何でもない人間です。
良い文章を書こうとしたって書けるものではないし、ただただ思ったままを書いていたら誰かが勝手に評価してくれることもあるかもしれません。
だけど、評価してもらえたからって自分がすごい人間になれるわけではありません。

それなら、やっぱり自分に正直でいたい。
できない自分はありのまま、未熟なままをさらけ出して、もし共感してくれる人がいたらうれしい。応援してもらえたらうれしい。

だから、ありのままの自分でこれからも生きていくことを決めました。


ただ、仕事ができる人と言われるようになった今の私でも「ちゃんと努力してるよね」と言われる頑張りは見せていきたい。

そんな承認欲求のようなエゴもありますが、努力している自分は、自分で自分を好きになれる要素のひとつになるような気がして。自信につながる要素ではありますよね、きっと。
努力し続けられる人も才能だなって、つくづく思います。そんな才能は喉から手が出るほど欲しい。


でも。
努力なんて、あくまで「自分なり」でいいんです。
人の目を気にした努力じゃなくて自分にとって努力と呼べるものを、これからもめげずにコツコツと積み重ねていったらいいんじゃないかなと。

それがいつかどこかの地点で振り返ったとき、あのとき頑張っていたよねと、何かにつながる未来であればいいなと思っています。

最後まで読んでくれてありがとうございました。
それでは、また👋

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