詩歌論:詩のちからはどこにあるか

 こんばんは。Sagishiです。

 唐突ですが、皆さんは詩歌において「やってはいけないこと」がなにか分かりますでしょうか、そうですね、技法の解説ですね。

 詩歌のせかいにいると、その界隈では公然と知られているような技法でも、それを表ではだれも話していないということに、どこかでなんとなく気づきます。

 だれかが「話してはだめ」と言っているというわけでもなく、なんなら大学などで詩歌の授業をうければ、ふつうに説明もされていると思うのですが、しかしオープンなブログとかでは書いているひとをなかなか見たことがない。

 詩歌の解説書みたいな本でも、あまり明確に記述されていないので、暗黙の了解、というやつかもしれません。いや、単にわたしがそう感じているだけで気のせいなのかもしれないですが。実際のところはよくわかりませんが、詩歌の技法には、ちょっと口伝的なところはあると思います。

 今回の記事では、その詩歌のせかいからすこぉしだけ顔を出して、詩歌の技法のなかでも、もっともポピュラーなものの1つを紹介していきます。



1 詩歌の『核』

1-1 実例をもとに説明

 まず最初に説明をしないといけないのが、詩歌に存在する『』のことです。特に現代詩や戦後詩になってからは、詩歌に『核』がある場合が多い、その傾向が顕著です。

 詩歌の『核』をしっていただくために、1篇の作品を引用します。石垣りん「くらし」(1968年)です。

くらし

食わずには生きてゆけない。
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかった。
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所に散らばっている
にんじんのしっぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙。

石垣りん「くらし」(1968年)

 と、引用をさせていただきましたが、たぶん詩歌になじみのないひとは、この詩のどこに『核』があるのかを、すぐ言い当てることができないのではないかな、と思います。分かりましたでしょうか?

 詩歌の『核』とは、つまり「詩語」のこと、その言葉がなくなると詩全体が瓦解する、いわば「急所」のことです。これがあるかないかが、詩が詩であるかの分水嶺になります。これ、マジです。上記の詩、石垣りん「くらし」にそのようなフレーズを見つけられますか?

 すぐ分かるひと、なんとなく気づくことができるひとは、それだけで文学的な素養、受容するちからがあるといえるのではないかな、と思います。ただ、これは慣れもありますし、訓練すればある程度は分かるようになるものだとわたしは思っているので、すぐ分からなくても問題はありません。

 なんならこの記事を通して、詩歌には『核』があるのだということ、それを見つけることに慣れてもらえればいいかなと思います。


1-2 こたえあわせと解説

 さて。石垣りん「くらし」における『核』とは、最後の行の「獣の」というフレーズがそれに当たります。試しに、「獣の」ということばを抜いて、無いものとして、この作品を読んでみてください。

 …分かりますかね。たった2文字抜くだけでこの詩はちからを失います。これが詩歌の『核』、「詩語」のちからです。

 では「獣の」というフレーズが無くなると、何が起きるのでしょうか。大きく3つの問題が起きます。

 1つ。「涙を流す」というのは、人間にとっては本能的なものでもあり、だれでも経験する、普通のことです。悲しいのか感動したのか、いずれにしても、「獣の」ということばがなくなり、「私の目にはじめてあふれる涙」という文章になってしまうと、文章から「驚き」がなくなります。たった2文字がなくなるだけで、はっと意識を覚醒させられるものがなくなります。

 2つ。しかも「私の涙」と言われてしまうと、とても個人的なところに詩が閉じてゆきます。自分だけの、自分本位の話に聞こえてきます。つまり、普遍性がなくなる。詩が響いてこなくなります。

 3つ。また、それまで書いてきた「食う」「肉」「腹」「口」「骨」といった、身体的・肉感的なフレーズの数々が意味を結ばなくなります。「私の涙」という精神的なところに話を回収されてしまうと、今までの書いてきた身体的・肉感的なことばの数々は何だったのか、ということになります。

 「獣の涙」と言われると、新鮮な感覚が、「驚き」が喚起されます。なぜなら、一般的に獣は涙を流さないですし、日常的にみかける表現でもないですから、そこには新鮮さが生まれます。そして、人間のなかの「獣」という胸のおくに秘められた「感覚」が惹起されます。だれしもがもつかもしれない獣性という普遍性を感じられるようになります。また、身体的なことばのすべても、その感覚へと結合されてゆき、リアルなものに昇華されます。

 これらをいちどに行っているのが、「獣の」というたった2文字のことばであり、「詩語」の効果です。つまりは、詩の『核』=「ちから」がここにあります。

 いかがでしょうか。詩のちからがどこにあるのか、感じられましたか?


2 「詩語」の作り方

2-1 遠結合

 さて、ここからは出血大サービスですが、「詩語」の作り方にはやり方がいくつもあります。そのうちの1つを紹介しましょう。

 今回の石垣りんの作品では、『遠結合』という技法が使われています。ちなみに、この『遠結合』という用語は、いまわたしが勝手に考えた造語なので、ネットを調べてもなにも出てこないと思います(ひどい)。

 まぁ要するに、特に定まった正式名称すらないような技法が、詩歌ではポピュラーな技法だということです。なかなかでしょう?(もしかしたら、何か正式名称があるのかもしれないので、知っているひとは教えてください)

 この『遠結合』ですが、要するに「獣の涙」のように、ふだんは結合することがないことば同士を結びつける技法です。似たような修辞法に「撞着語法」というものがありますが、それとはちょっとニュアンスが異なります。

 撞着語法は、「明るい闇」や「小さな巨人」のように、相反するような意味のことばを接合する修辞法ですが、『遠結合』は「覆された宝石」とか「後退る雨」とか、「新鮮な自転車」とか、とかく見慣れない表現を生み出す手法のことです。「遠いものの結合」ということです。

 詩歌では、この『遠結合』を「詩語」として機能させることで、作品全体の強度を高める、ということをよくやります。「異化効果」と言われることもありますが、『遠結合』は多様な「異化」のうちの1手法にすぎないので、ここでは分けて覚えておくのが良いだろうと思います。

 『遠結合』それじたいは単純な方法論・技法でしかありませんが、詩歌のなかで効果的に用いるためには、当然工夫、経験、実力が必要になってきますし、この手法の欠点もしっておく必要があります。


2-2 詩語のリスク

 石垣りん「くらし」では、最後の1行だけにこれを用いることによって、詩歌全体を締め上げ、作品をビルドアップして(完成度を高めて)いますが、やり方としては「リスク」がある方法ではあります。

 なぜかと言うと、ここが「急所」になるからですね。

 この作品では、「きょうだい」とか「ふくれた腹をかかえ」とか、随所で随所で重みのあることばを用いることによって、詩歌全体の意味を拡張させたり、重みづけのバランスを取ったりしていますが、たった2文字「獣の」だけに詩歌全体のパワーが集中することになると、やはり作品としてはバランスが悪くなってしまいます。

 2文字消すだけで詩として瓦解するというのは、それだけ構成に気を配る必要があるというのと同義です。あえて「リスク」とか「急所」とか表現するのは、そういう意味があります。うまくやらないと、失敗しやすいということですね。

 ポイント的に「詩語」を用いる場合、長い作品になると傾向としてだらだらとしてきますし、また感情的・情緒的な作品になりやすいという特徴もあります。まぁここらへんは、実際に作詩してみて、自分なりに気づいていくのがいちばん良いかなとは思います。


まとめ

 こんなちゃんとした詩歌の記事を、noteに書いていいんですか?! というのは正直、個人的に謎です。わかりません。

 まぁただ、詩歌を「読める」「書ける」ということの実力をどう証明するのか、どう詩歌をやらないひとに伝えるのかって、本当にむずかしいよなとずーーーーっと昔から思っています。

 だから、まぁこれぐらいは良いでしょう。

 個人的には、書くよりも全然読むスキルのほうが重要だし難しいよな、とも思いますし、読み方もめちゃくちゃ色々な手法があるので、独学で詩歌の読解スキルを身につけるのってほとんど不可能に近いんじゃないかな、とも思うのですが、それを伝えるすべがないので、困ったなぁといつもウンウンうなっています。

 いちばんの近道は、以前も以下の記事で書いたのですが、「とりあえず色々と詩集を手に取ってみて好みの詩人を見つけ、その詩人と仲が良い詩人をさらに読み、ということを重ねていく」なのかな、とは思います。

 まぁこの記事を読んだひとに、「え? 詩歌ってそういうふうに読むものなの?」と気づきがあれば、ちょっとだけ新鮮なきもちになってもらえればいいかな、とわたしは思います。

詩を書くひと。押韻の研究とかをしてる。(@sagishi0) https://yasumi-sha.booth.pm/