【日本と中国】国民の「自由」を実現するためにの最適な政治体制とは

暇があると、よくGlobis知見録を見ている。

これ、各領域の最前線で活躍する方々のディスカッションがたくさん見れて、とてもおもしろい。

今回見た動画で、イェール大学助教授の成田悠輔さんが、提起していた問題が興味深かった。

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ある少年は、夜怖い夢を見たという。

そこでは、郊外の別荘地で「成功者」というはちまきをした大人たちが、滑舌良く、はきはきと、この世界をどうやったらよくできるかという議論をしていたという。

この光景を見た、少年は、こんな精神性は嫌だ、と苦しみ、この悪夢から目覚めた。

この少年に対して、成田さんが説得をした。

「彼らは悪魔に見えて、実は天使なんだ」と。

世の中に、情弱な貧乏人が沢山いる。

世の中には、ストロングゼロを飲んで、競馬で金をすって、今日で終わりと思い、また次の日も同じことする。他者や社会のことなど何も考えてない。

この人達に、社会の運営を任せることなどできない。

彼らを、政治的に無力化することは、十分に意義のあることなのだ。

それを聞くと少年は、綾波レイのような微笑を浮かべて去っていった。

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これを聞いて、皆さんはどう思うだろうか?

平たい言葉で、問題の核心をまとめると次のようになる。

国民主権の民主主義社会において、大多数のバカが政治を決めていたら、ずっと社会は駄目なままである。だったら、少数のエリートが取る道はバカを分断し無力化ていくこと。(もう一つはバカを教育していくこともあるだろう)

まず、前提を確認しよう。

人間が「社会」という共同体を形成している理由は、外的環境から身を守り、構成員である人間の幸福を追求するためだ。われわれは、社会契約として、戦争状態を避けるために国家を作る。

つまり、社会を作るときの正当性は、社会の構成員である国民一人ひとりである。

ある国民一人にとって、彼(彼女)の実存としての生以上に重要なことはない。彼(或いは彼女)にとって、国の指導者も脇役でしかない。

これが国民主権の考え方だ。

主役は、国民一人ひとり、彼らの自由(幸福)が最優先なのである。

現代において、普遍的に受け入れられる可能性がある政治体制は、国民主権しかない。

そう考えると、

成田さんの主張する「エリートがバカを無力化し分断すること」の問題点はどこになるのか?

バカが知らぬうちに、エリートに生き方を操作されているのは問題か?

これは、感情的には受け入れがたいが、バカに反論の余地があれば問題ない。

エリートはそもそもバカの政治参加自体の権利は奪っていない。マスメディアで、思考力を奪うような情報をインプットし、デフレで最低限の生活はできるし、ストロングゼロやパチンコという楽しみも用意している。

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余談だが、政治的に弱体化されたバカは、悲しい存在なのだろうか?或いは、実は主観的に幸せなのであろうか。

仮に操作されていたとしても、毎日汗水たらして働き、ストロングゼロで快楽を得て、ネットの世界でいろんな人とコミュニケーションをする、たまに競馬で勝ったりして、それで満足かもしれない。

それを自覚しつつもあえて、動物化するのも悪くないと考える人もいるだろう。

自分で世の中を変えることに意義を見出す人なんて、そもそも至極少数。

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彼らバカも可能性としては、一票を投じたり、ネットや路上で政治活動をすることは可能である。

この可能性に開かれていることは重要だ。やるかどうかはわからないとして、やろうと思えば、それは認められている。

エリートが法に則り、バカを無力化しているのであれば、バカは何もいえない。彼らの自由は表面上は確保されているから、問題があれば政治に参加すればいいのだから。

なので、合法的にエリートがバカを無力化できるものなら、それは何も咎められるものではないだろう。

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しかし、そうなると、エリートたちは何を求めているのか?という話になる。

彼らはエリートなのだから食うには困らない。

その彼らが社会のためにとバカを無力化して、どんな社会を作りたいのだろうか?

国際競争力を高める?それはどんな指標で?GDP?

むしろ、一番大きな問題は、

このエリート層が、どんな社会をつくりたいのか?に依る。

自分たちが長く存続したいという話?

自分たちとはどこの範囲まで?

ただ、社会の頂点に立ち意義あることをしたいという承認欲求?

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そのいくつく先は中国なのではないか?

中国においては、人民主権を謳っているが、実際は党主権である。

彼らの行動原理は、実際問題、党の存続が最高目的、さらに言えば、チャイナ7と言われる常務委員の存続である。

でも、最終的なKPIのようなものを、党の存続に置いてしまえば、何億人もの国民の命は粗末に扱われてしまうのではないか?

そのとおりだ。

しかし、

それは発展度合いに依る。

文革時代などはまさにこうした政治体制が仇となり大量の死者が出た。

ただし、社会が発展していけば、おのずと構成員の主観的生を満足させることが重要になってくる。

党は生き残るためにグローバル資本主義社会の中で、国家や軍を運営しながら、強い国を作る必要がある。そのためには、14億という人口を保ち、そこから創造性あり優秀な人口のプールをしておく必要がある。

まだまだ社会問題が多いが、今、まさにそういう状況になりつつある。

実は中国は、国民主権の理念も捨ててはいない。

憲法第2条で「中華人民共和国のすべての権力は、人民に属する」と明記されている。

だから、一定レベルまで権力が安定してくれば、内実を民主的な体制にする可能性も残されている。

冒頭の成田さんの指摘するバカの問題について、中国はもともと真摯に現実を直視している。

一方で、日本は、中途半端だ。

国民主権の理念についても、十分に国民に根付いていないし、政治は各党派が「民主体制」の下で最終目標がブレながら、何を目指しているかわからない状態で、競争している。

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みなさんは、次のどちらがいいだろうか?

A:形式上は、国民主権といいながら、各構成員の実存(主観的な生)など考えていない為政者(日本的)

B:為政者自体の存続を第一目的としながらも、その重要要素として各構成員の実存(主観的な生)も考慮している為政者(中国共産党的)

これは、実際、どれだけ実現ができているかに依る、という考え方もできるし、理念としては国民主権がないとだめだ!という考えもありうる。

最終目的である国民の自由を実現するためには、さまざまな方法がありうる。

その方法の呼び名や形式はあまり重要ではない。


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