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難民はなぜ、子供を連れて危険な海を渡るのか(再録)

初出:2015年11月11日 ニューズウィーク日本版

地中海で沈没した密航船で死んだガザの家族。3歳の長男(左下)と1歳の長女(右上)と父親(右下)と母親(左上)(遺族提供)

エジプトからドイツに渡ったシリア人の友人

 (2015年)10月末に突然、私がカイロで知り合ったシリア人の友人Aさん(36)から「いま、ドイツにいる」と連絡があった。新聞社のカイロ駐在特派員をしていた2013年夏にカイロにいるシリア難民の取材をしていて知り合い、よくシリア難民について話を聞いていた。Aさんがドイツに渡ったのは8月下旬で、トルコの西海岸からギリシャの島に密航し、陸路を北上して、18日間かけて、ドイツにたどりついて難民申請をしたという。

 Aさんから電話で密航の話の一部を聞いた。カイロからトルコに渡り、西部の都市ボドルムでエーゲ海にあるギリシャの島に渡る密航船を手配する斡旋人と会った。出港したのは、ボドルムからさらに車で2時間ほど走った海岸で、午前1時ごろだったという。海岸には37人の密航者がいて、その中に3人の子供を連れた夫婦がいた。子供は9歳、6歳、3歳という。乗り込んだのは船外機がついた長さ8メートルほどのゴムボートで、37人が乗るとぎゅうぎゅう詰めになった。深夜の海に乗り出して、5キロほど離れたギリシャのサモス島を目指した。

 距離は短いが、海峡になっているため潮の流れが速く、ゴムボートはまっすぐ進まない。さらに途中で3回、船外機が止まったという。1回は燃料切れで、燃料を補てんして出発し直した。5時間たってサモス島に近づいたころ、海が荒れ始め、ボートは大きく揺れ、最後はバランスを崩して転覆し、乗っていた全員が海に投げ出された。Aさんはそれから3時間、泳いでやっと島にたどり着いたという。「もう助からないと思った」という。

「泳げるのか?」と聞くと、Aさんは「救命胴衣を着けていた」という。Aさんはカイロからイスタンブールに向かう飛行機で、救命胴衣の説明があったのを聞いて、降りる時に座席の下にある救命胴衣を持ってきたという。「飛行機の救命胴衣は、とても性能がよく、おかげで命が助かった」とAさんは笑った。その話を聞いて、飛行機に乗る時から海を渡る覚悟を決めていたのかと思った。

 ギリシャのサモス島に着いて、地元の警察に出頭した。ギリシャで難民申請をするかどうかを聞かれ、申請しないと答えると、「3日以内に出国する」という条件で釈放された。それからアテネに行き、その後、マケドニア、セルビア、ハンガリー、オーストリアの国境を陸路で超え、18日後にドイツに到着して、難民申請をしたという。セルビアからハンガリーの国境を超える時は、11時間山の中を歩き、ハンガリーでは警官隊にこん棒で殴られて気を失いかけるなど、「途中で10回くらいはもうだめかと思った」と語る。

 Aさんが密航した(2015年)8月下旬と言えば、地中海を命がけで渡るシリア難民問題が世界的なニュースとなっていた時だ。その真っただ中に、自分が知っている人物が、難民の群れの中にいたことが分かって、そのころニュースやテレビを通して見たゴムボートに詰め込まれた人々など、難民たちの様々な映像が、フラッシュバックしてくる気がした。

大人でも死を覚悟したゴムボートでの密航

 Aさんの話を聞いてすぐに思い浮かんだのは、9月初めに海岸に打ち上げられた3歳の男児の遺体の写真である。男児が打ち上げられた海岸は、Aさんが密航の斡旋人と会ったボドロムである。私は(2015年)9月末にトルコでシリア難民の取材をした時に、ボドロムに行き、その海岸を訪ねた。海岸は、ボドロムからさらに10キロほど離れた場所で、目の前にはギリシャのコス島が見えた。3歳の男児は、シリア北部出身のクルド人の両親と、5歳の兄とともに、ゴムボートでコス島に渡ろうとして、海に投げ出されておぼれ死んだのだった。

 Aさんが乗ったゴムボートにも、3歳児など3人の子供を連れた家族がいたという。Aさんによると、Aさんと一緒にボートに乗った37人は3歳児も含めて皆、無事に海岸に着いたという。しかし、大人のAさんが「死を覚悟した」というくらいだから、ボートが転覆して子供たちが生き残ったのは奇跡だろう。私がボドロムに行った時、私を現場まで案内してくれたタクシーの運転手も、「大人は渡ることができても、問題は子供たちだ。何の罪もない子供たちが海で命を落とすのは痛ましい」と語った。

 Aさんはボドロムから密航斡旋人の車で出発したが、実際に海を渡ったのは、北80キロほどにある場所で、渡った先もサモス島だった。サモス島もコス島と同様にトルコからの密航者が渡る島である。私はサモス島に渡るトルコの海岸にも昨夏、新聞の特派員としての取材で行ったことがあった。
 当時、Aさんの知人のシリア人がドイツに渡ったというのでドイツに行ってインタビューをした。そのシリア人は、最初、サモス島を目指してゴムボートに乗ったが、すぐにボートが浸水したために、岸に戻ってきたという。密航をあきらめて一旦、シリアに戻ったが、状況がさらに悪化したために、もう一度トルコに行って密航を試みた。

 2回目の密航では海ではなく、トルコの北部の川を越えて、ギリシャに入った。その後は、今回のAさんと同様に、マケドニア、セルビア、ハンガリー、オーストリアを経てドイツに着いて難民申請をした。途中、マケドニアとハンガリーで警察に拘束され、ドイツに到着するまで5か月かかったという。詳細は、私のブログの「ドイツまで歩いたシリア難民の証言」をご覧いただきたい。

 昨夏(2014年)、サモス島が見えるトルコ側の港で、漁師たちから海を渡ろうとして死ぬ難民たちについて話を聞いた。おぼれ死んだ難民の遺体を引き上げたことがあるという漁師の1人が「シリアやイラク、パレスチナなど、不幸な中東の人々が、自由と繁栄を求めてここに来る。海の向こうに幸せな人生があると考えるのだろう」とため息交じりに語った。

子供たちの将来への不安が欧州密航へと背中を押す

 Aさんは私がカイロにいたころから、「いつか欧州に行きたい」とは言っていた。しかし、Aさんは先にドイツに渡った知人から「密航は厳しすぎて、あなたにはできない」と言われたと話していた。事務系の仕事をし、太り気味のAさんを見ると、海を渡ったり、山を越えたりすることに耐えられるとは思えなかった。Aさん自身も危険が伴うことは承知している様子で、「危険を冒すつもりはない」と言っていた。そのAさんがなぜ、危険な密航を決行したのだろうか。

 Aさんはダマスカスの高校卒業後、ビジネススクールでカスタマーサービスを学び、ベイルートのフランス系のスーパーマーケット「カルフール」で採用され、その後、サウジアラビア、ドバイの系列店でもそれぞれ2年間働いた。シリア内戦が始まると、カイロに移り、しばらくカイロのカルフールのカスタマーサービスで働いていた。

 Aさんの心境の変化は、エジプトの変化を映していた。最初にカイロに来た時は、エジプト革命後に選挙で選ばれたイスラム系大統領の政権で、シリアの反体制派を支持し、シリア難民を歓迎する政策だった。ところが2013年夏、軍のクーデターが起き、イスラム系大統領が排除されると、政府はアサド政権支持となり、シリア難民に厳しい政策へと変わった。「エジプトではシリア難民は就業が認められず、生活が困窮した」という。

 さらに、2013年に長男が生まれ、2015年に長女が生まれたことが、欧州密航へとAさんの背中を押した。「エジプトにいても、シリアに戻っても、子供たちの将来はない。まともな生活の基盤も出来ず、まともな教育を受けさせることもできない。子供の将来を考えると、海を渡るしかなかった」という。ドイツで滞在許可が得られたら、妻と子供2人を呼び寄せるという。「私だけだったら、危ない密航をしようとはしなかっただろう」とAさんは語った。

 私は今年(2015年)9月末、トルコのイスタンブールの商業地アクサライに集まるシリア難民やイラク難民を取材した時に、欧州に渡る難民に2つの種類があることに気が付いた。一つは当然、20代、30代の独身の若者たちだ。アサド政権軍の空爆を受ける反体制派地域の若者たちが多い。一方で、政権支配地域から兵役を逃れてきたという若者もいた。

子供を連れて密航を試みているシリア人の家族=イスタンブールのアクサライで
(2015年10月、川上泰徳撮影)

 シリア軍は内戦前には30万人いたが、いまは半分以下に減っているという。兵士の死亡による減少に加え、兵役を拒否して国外逃亡する若者たちが後を絶たない。戦争で若者たちが将来を奪われるのは、政権地域も反体制派地域も同じである。

家族連れが欧州に着いた難民の半数以上を占める

 欧州を目指す難民たちで、もう一つ特徴的なのは、幼い子供をつれた家族連れである。密航希望者の情報交換の場所ともなっているアクサライの広場には、なぜ、こんな幼い子供を連れて欧州に渡ろうとするのだろうと思うような、家族連れをあちこちで目にした。ボドルムの海岸に打ち上げられた3歳児の家族もそうであるし、Aさんと同じ船に乗った5人家族もそうだろう。

 今年(2015年)8月にパレスチナ自治区ガザに行った時に、ガザに事務所を置く欧州の人権組織の担当者から、ガザから欧州への密航が大きな問題になっているという話を聞いた。7年前から続く経済封鎖、6年間でイスラエルによる3度の大規模攻撃、65%に上る若者層の失業率......。若者たちの多くがガザから脱出しようとしていたが、ここでも家族連れの密航があった。

 ガザの絶望的な状況を象徴するのは、昨夏50日間続いたイスラエルによる大規模攻撃後の昨年9月初め、エジプトのアレクサンドリアから出港した密航船が地中海で沈み、400人以上が死んだ事件である。そのうち300人以上がガザ出身者だった。

 沈んだ密航船の取材で、3歳の長男と1歳の長女を連れた夫婦の4人家族の遺族に話を聞いた。家族は密航を止めたが、若い父親は「ガザの状況は最悪だ。ガザに残るくらいなら死んだほうがましだ。私は神に運命を委ねる」と反対を押し切って家族を連れてガザを出たという。

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の統計では、今年10月までに海を渡って欧州に着いた難民は77万人おり、うち20%が子供で、14%が女性という。海を渡る難民の3分の1が女性と子供ということは、夫や父親を含めた家族連れが難民の半分以上を占めることが推測できる。

 海岸に打ち上げられた3歳児の遺体の写真が世界的な反響を呼び、海を渡る難民の中に子供をつれた家族連れがいることは日本でも知られているとしても、これほど多いということは余り認識されていないだろう。実際に子供を同行しなくても、Aさんのように「難民生活で子供の将来が開けない」という親としての焦りと危機感から密航を決意する男たちも多いのである。

難民支援で必要な「クオリティ・オブ・ライフ」

 日本政府を含め、シリア周辺国への国際的な難民支援は、衣食住や医療という人道支援が中心で、親や家族を密航に駆り立てる「子供たちの将来」への配慮は十分に視野に入っているとはいえない。しかし、難民キャンプで最低限の衣食住を与えられるだけでは、子供を持つ親たちの不安は全く軽減されず、時間がたつにつれて子供の将来への心配は膨らむ。その結果、子供を育てられる安定した環境を求めて、欧州への命がけの密航に身を投じることになる。

 家族生活を維持し、子供にしっかりした教育を受けさせたいという難民の親たちの思いは、ぜいたくとして否定されるべきだろうか。私は、そうは思わない。むしろ、戦争で住む場所を追われた厳しい状況の中であっても、子供に社会人として自立できる人間になって欲しいという親の必死な思いは、市民社会のモラルや秩序の維持につながるものである。

 シリア内戦はすでに4年半を過ぎ、400万人以上が難民化し、700万人以上が国内避難民となっている。難民生活を強いられる子供たちが「失われた世代」となれば、彼らが将来、若者になり、親になることを考えた時、その影響はシリアだけでなく、中東や世界に及ぶだろう。

 難民問題の対応は、難民の家族が安全に暮らし、子供が教育を受け、育つ環境を提供するという「生活の質(クオリティ・オブ・ライフ)」という視点から見直されるべきである。生活環境が整った欧米や日本が難民家族を受け入れることは、そのために重要な対応である。

 さらに周辺国に留まる難民たちに対しても、難民の親たちが家族を維持し、子供たちがしっかりと育つ環境があると考えられるような国際的な支援が必要となる。難民の受け入れ国で、地域の住民と難民の両方の生活や就労を向上させるような国際的な取り組みはできないだろうか。国際社会は、難民たちが周辺国で不毛な難民生活を続けるか、命がけで欧州に密航するかという極端な二者択一から解放される道を探さねばならない時にきている。

※初出:2015年11月11日 ニューズウィーク日本版


 


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