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家族のかたち Ⅸ[エピローグ]

最後に親父の話を書こうと思う。

自分で建てた持家に住む。これが彼の人生最大の目標であり、40を過ぎて、まさしく叶えた夢でもある。

「借家の大工だと馬鹿にされる!」

と親父がたまに言っていた記憶がある。

高校の頃に引越しをしたので、その家はもう四半世紀の月日が経ち、少し古びた感が拭えない。

通常、木造二階建は、3〜4ヶ月で出来るというが、彼は3年の月日を掛けて完成させた。

これには少々事情がある。僕が中学生の頃、親父は狭心症みたいな症状で一時期、家で寝たり起きたりの生活を送っていた。いろんな病院に診てもらったが、

「病名すら分からなかった」

恐らくバブル全盛の時代に、ひたすら働き続けた体が、悲鳴をあげたのだろう。

それは毎日寝たきりの状態ではなく、体調のいい日はリハビリを兼ね、1人でコツコツと自分の家を造作するという状況であった。それが3年もかかった理由である。

祖父も大工で、九つ上の伯父も大工だから

「必然的に自分も大工になった」

と酔っ払った親父から、聞いた事がある。また、

「ワシは中学を卒業してすぐに働いた」

これが彼の口癖であった。詳しくは働きながら夜間の定時制高校へ通っていたのだ。

彼の姉である伯母さん曰わく、

「勉強が出来なかったから、定時制の高校しか受からなかった」

とのこと。中学の同級生であり、当時は農協の事務員をしていた母と出会い、結婚した。そのおかげで町立の教員住宅に住めることになる。

当時のことは両親からあまり聞いたことが無いが、一つだけ覚えている話がある。

「母の成績が良かったので、もし結婚したら、自分より頭のいい子供ができるはず。自分に似た頭の悪い子供を作りたくない」

そんな想いから結婚を、申し込んだのだと。

そして住むことになる新居だが、この教員住宅は家賃が無茶苦茶安かった。確か月5,000円程だった気がする。僕が小学生の頃は、

「友達よりもかなり貧乏な家だ」

と思っていたが、今から思えば破格の家賃で、そのような所に住めればラッキーと思う他ない。

また、両親が出会った頃に、この団地は造られたという。その当時は、

「町中から応募が殺到した」

らしいが、真実の程は定かではない

「農協の職員がなぜ教員住宅に入れるのか」

と疑問に思うかもしれないが、役場に勤めている人や、消防士もいたので、恐らく公務員であれば、誰でもそこに入居できたのだと思う。

親父は職人であるが故に、同じ職人仲間のことを、良く思っていなかったようだ。また彼は、

「学校の先生や役場に勤めている人が、周りにいる環境で子供を育てたい」

と思っていたのかもしれない。
これは、役場に勤めておられるKさんという方が、親父とよく酒を飲んで、話していた内容を、子供ごころに覚えた話である。

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