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ダメなの? ちがうの❓ 【社会とか教育とか人間関係】

私はよくお説教されます。
至らない人間性を備えているからと予測します。

その際に私は
『○○だからダメなんだね。こんな私でごめん。次は気をつける』

――と確認と反芻をします。記憶への固着率を高める為です。
100%同じ過ちを繰り返さないと保証などできませんが、記憶への固着自体が行動に変化をもたらす可能性に賭けています。

しかし、ここからよく意外な事を言われます。

『どうしてそんなに自分をダメって思うの❓』

…………❓¿ ❔

ダメな事をダメと指摘されたからダメと思うのは当然の流れでは。ダメという自覚を促す為に現在お説教をされているのでは? と『❓』がいっぱい湧きます。

人間▶︎人間への指摘の場合、特に一般論や常識を持ち出す必要はないと思います。逆に、存分に主観を使い意見された方が私は気持ちいいです。

一般論は一般的であるがゆえに実態を掴みにくく、従って反論も難しく空を切るような虚しさにまみれています。
『一般論を出された時点で負け』みたいな感覚ももどかしいです。

で、まあ。
『❓』から生じた疑問を言葉にし説明しますが、私が真剣になればなるほど相手は『も〜っ‼️』ってなります。説明が仔細すぎてウザいのでしょう。

そして着地点もうやむやになり

結局私はどうすればいいんだ……❓

となります。



相手の指摘に従おうとしたら、『いや、あなたはソレしかやらなくなって堅くなるからダメ』と指摘が追加されます。

???

じゃあ『やったりやらなかったり』でいいの? と提案をしますが、勿論却下されます。
自分の丁度いい具合の行動が全然わからないのです。

『そんなのでどうやって社会生活を営んでいるのか』
と言われ
『えっと……なんとなくで』
と答えます。

お説教とは【条件の追加】だと考えています。
言動に抑制を加え、より素晴らしい人間性を獲得する為の儀式。
ところで『岡潔』氏がこんな事を書いていた。

まず、戒律を守らせる教育である。時実利彦著『脳の話』(岩波新書)を参照していえば、大脳皮質は古皮質と新皮質とに大別され、古皮質は欲情の温床であってサルなどとあまり違わないが、新皮質は人の人たるゆえんのものを司っている。

春風夏雨 より引用

しかし、私がお説教で提示された『戒律』を愚直に守ろうとすれば『堅くなる』とされる。

どうすればいいんだ……❓

戒律を守らせないで人の子を内面的に育てることは不可能といえる。教育がそのことをよく知って改めなければ、欲情や本能がその人を支配することになってしまう。いまは「何々しなさい」という教育ばかりで「何々してはいけない」という教育はほとんど行なわれていない。これが何より心配なことである。

同上

このような意見に賛同する場合、私は『お説教』を歓迎しなければならない。実際、普段無意識で好き放題言動をしているので、『してはいけない』と指摘されるのは強い自覚に繋がる。

昨今の教育方針(親や学校)はこの辺を明確にしているだろうか。
ざっくりのイメージだが

『○○してはいけない系の教育は対象の脳を萎縮させ無気力な人間を形成させる危惧がある――からこそ、ほぼ無条件に対象を肯定しなんでもやらせる――加えて、叱ったら元の木阿弥だしナンチャラハラスメントに抵触するから教育側は傍観および肯定するしかない』

って具合なのかな❓
その結果『叱られ慣れていない子』が蔓延り、岡潔氏の言う『獣類』のような人間が大多数を占める世代となっているのか。

そんな世の中は『戒律の不在』ではなかろうか。
昔のナゾ頑固オヤジ、どうにもならなさそうなヤバい不良、おせっかいオバサン……これらが影を薄めて久しい。

ぬるま湯のような腑抜けた社会。均一化されゆるく肯定され、しかしながらどこを向いていれば分からないような。
一見気楽に思えるが、その一方で潜在的ストレスから平然と他者を攻撃するし、凶悪な犯罪も起こる。終わらぬ戦争や政治家の不祥事に物価の上昇に睡眠不足。

自由という刑に処されつつ、国民が持つべき『戒律』も掴めず、よく分からない方向に進む社会の中でなんとなく生きているがゆえ、革命のキッカケもよく分からない、どうすりゃええの❓――という感覚が私にはある。



……そうだな、やはり。

お説教はありがたい

だな。
みんな玄関に貼ろう❗️

【叱られているうちが花‼️】

そしてお説教されても『むっ……』とせずに、叱ってくれてありがとうと伝えよう。

だから私も『自分はダメなんだ』と思わないようにする。だって叱ってくれる人がいるもん。無関心じゃないもん。

それってすごく、嬉しいことじゃない❓

🔔『もうひと声!』

それでもこんなダメな私と一緒にいてくれてありがとう‼️

🔔『(拍手)』



【おまけ 岡潔氏の創造の解釈】

人が自分のこころの中から外界に何かを出すときはどうであるかを見ましょう。まず情緒をはっきりと感情の形に大脳前頭葉に映し出す。つぎにそれにもとづいて意欲する。そうすると大脳側頭葉その他が全面的にこれに協力して、結局、情緒という無形のものが、何か形あるものとして外界に現われる。これが創造であって、無から有をつくるからそういうのです。

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