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現実と精神

創作をしてる人は間違いなく同意……は言い過ぎか。まあ概ね賛同共感をしてもらえると思うのだが。

精神活動をしている自分は別人格だと

確かに普段、起きて食べて仕事して思考する私は……私だ。自分の『考え』については、構造主義の立場にある。環境要因がでかすぎるって意味ね。もうちょい付け足すと、自分の考えだと『思い込んでる』部分は、その大きな『構造』がそうさせたって感じ。

ポスト構造主義ってのもあるが、まあ一緒かなぁ。当たり前なんだけど宇宙地球国社会という構造からは逃れようがない。

中学生くらいまではさ……いや、買いかぶりすぎたな。20代中盤くらいまでは『自分の想像を絵にするのがイチバンいいのだ!』と、ありもしない『自分の想像』をこねくり回していた。

「でもそれだって自分の想像じゃん」
と思うかもしれないが、構造主義に照らし合わせると雲散霧消する。どこからが自分の純粋な考えなのか、わけがわからなくなるのだ。そして人は大した代替案も出せないまま、路頭に迷うのだ。

ここまで伝えると、少し前の『親ガチャ』議論に対し、私が何を言いたいか理解してもらえると思う。


コーヒーこぼれちゃった

反撃なのさ、構造に対する

話を戻します。確かにこの『おみゅりこ。』は私だ。だって私が書いてんだもん(๑•ૅㅁ•๑)
だが地を這う私と違い、彼女は自由だ。
『自由』なんて言葉を出すと、再び構造が顔を覗かせるが、アイツうざいからみんな無視しよ!

でもな、構造の中の私が生んだ精神としての『おみゅりこ。』が構造から外れているか――と問われれば、勿論ちがう。別人格の私が、何かを考えるからそれが何なの? って思うだろうがその通りだ。

だから私は、もう一段階先を想定している。

私から出た『おみゅりこ。』が更に別の存在を生み、更にその別の……

ああ、全てはこの苦しさから逃れる為さ。
精神活動により、何かから脱却したい。それだけ(๑•ૅㅁ•๑)

……まあ、一言で表すと『産みの苦しみ』の話だな。


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