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森田千春評 バーナード・ゴットフリード『アントンが飛ばした鳩――ホロコーストをめぐる30の物語』(柴田元幸/広岡杏子訳、白水社)

評者◆森田千春
ホロコーストを生き延びた写真家――彼の瞳に映った人間の真の姿とは
四十年余を経てついに綴った実話に基づく短編集
アントンが飛ばした鳩――ホロコーストをめぐる30の物語
バーナード・ゴットフリード 著、柴田元幸/広岡杏子 訳
白水社
No.3598 ・ 2023年07月08日

■ホロコーストを生き延びたポーランド系ユダヤ人写真家が、四十年余を経てついに綴った実話に基づく短編集である。
 著者バーナード・ゴットフリードはワルシャワ近郊の町で育ち、十四歳の時に故郷がナチスに占領され、十九歳で強制収容所に送られた。過酷な環境を生き抜き、一年半後、ナチス敗退。解放され、二十三歳でアメリカへ移住する。カメラマンとして生きた六十代半ばで、二十一の短編からなる本書の初版を刊行し、複数の賞を受賞して話題を集めた。この度翻訳刊行されたのは、七十代半ばに九編を追加した増補版である。
 表題作「アントンが飛ばした鳩」は、平和な少年時代の日常が一転する物語。近所に住む管理人で気分屋のアントンは、無類の鳩愛好家だった。ところがある日、鳩を押収するというナチスからの通告。すると、アントンは子どものように可愛がっていた鳩を一羽残らず殺し、「妨害罪」で囚われてしまう。数年後、著者はユダヤ人収容所で思いがけずアントンに再会する。同じ囚人ながら、非ユダヤ人のアントンはユダヤ人を取り締まる立場にあった。アントンは元々ユダヤ人を毛嫌いしていたが、著者にはこっそり衣類や食料の便宜を図って励ましてくれ、そのお陰もあって著者は生き延びられた。各人の「属性」が多様なグラデーションを帯びて、偶然や僅かな差異で立場や運命、生死までもが分かれるホロコーストを象徴する作品だ。アントンと、家に残った彼の妻のその後も描かれ、胸に迫る重層的な構造になっている。
 「最後の収容所」でも、人の奥底にある善性が暗闇の中で光を放つ蝋燭の灯のように描かれる。著者はオーストリアの収容所でドイツ語能力を認められて食糧部隊長になり、その立場から食糧を規定以上に多くこっそりと収容者たちに配っていた。ある日、著者は足首を捻挫してしまう。すると、ロシア人捕虜たちが彼を助けてくれたのだ。通常、怪我や病気で病室へ送られると二度と帰って来られなかった。ところがロシア人捕虜たちは、「時が来たら、君が脚を引きずらずに祖国へ帰れるようになって欲しい。誰かが君を待っているだろうから」と、ナチスに怪我がバレないよう歩行を助けてくれ、冷やす氷も持って来てくれたのだ。日頃から著者がパンを多く配分してくれているのを察したロシア人捕虜たちと、国籍や立場を超えて信頼し合う関係になったのである。著者は病室送りを免れ、ここでも命拾いをした。
 「三つの卵」では、戦中に経験した卵にまつわる物語と、戦後の幸せな生活の中でその物語を順に思い起こす著者の姿が描かれる。最初の卵は父の収容所に出てくる。著者は偶然に父の収容所を訪れる。息子がトラックに乗せられて去る瞬間、父は危険を冒して卵を一個、息子に投げ渡そうとする。だが、息子である著者はこの貴重な卵を受け取り損ねてしまう。次の卵は岩塩坑での強制労働中に目にし、実際に手にする。同じエレベーターに乗り合わせたポーランド人坑夫が、無言でウィンクして卵を著者の手のひらに乗せてくれたのだ。久々のご馳走に鳥肌が立つほど楽しみにしていたが、食べる寸前に現れた女性に卵を譲ることになり、さらにはその後思いがけないことがあって、罪悪感を覚えてしまう。最後の卵は戦後の幸せの中で手にする。生卵をパスする親子競技で失敗したことを息子と談笑しているが、戦中の二つの卵にまつわる苦い思い出が蘇ってしまう。著者のこの姿から、ホロコーストの真実の重さと、それを人に伝えることの難しさが感じ取れる。
 四十年を経て、著者は自身の体験を三十の物語にした。平和ながらもユダヤ人であるがゆえに差別を受けていた戦前の子供時代、過酷な戦中時代、生き延びて新しい生活を始めた戦後。読者は著者が生きた時代を著者とともに体験できる。
 著者ゴットフリードは短編集刊行の後、多数の講演を行い、九十二年の生涯を生き抜いた。先に収容所に送られた母に、別離の際に言われた。「生き残って世界に伝えて」。バーナード・ゴットフリードはこれを忘れることなく、胸深くにしまい込み、のちに実行したのだ。「世界に伝えて」という母の強い願いが、さらに多くの人に届くことを祈る。
(翻訳者[ポルトガル語]/ライター)

「図書新聞」No.3598・ 2023年07月08日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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