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最大の幸福感のために大通り沿いの食堂において悩んだという私小説的出来事を通して自身にもたらされた気づきについての一考察

-orで選択することandで相互補完することについて,コンピテンシー教育およびケイパビリティ教育という観点から-


1.私小説的出来事を経験するということ

 私小説を好むと好まさざるとに関わらず,私の主観は私小説的に感じられる出来事はある。このように述べると,多くの人は「当たり前じゃないか?」と思われるのではないかと推測する。なるほど,私の主観という表現から考えると,個人のストーリーの中で発生するのだから,私小説的であることは必然のように感じられる。しかし,私自身の体験を振り返ると,実際にはそうでもないように思える。なぜなら,私は普段の生活において,それほど自分の心の状態に目を向けていないし,自分の思考を改めて感じる機会など少ないように思えるからである。むしろ,そのように自分の感情や思考を常に体感しているような実感はない。このように,私小説的に自分の経験を振り返ると私自身にとって私小説的な経験は少ないように感じられ,その感覚について納得している。しかし,私小説的に出来事を経験する機会は時々ある。今回は,大通り沿いの食堂で感じたそのような経験について紹介したい。


2.ある日の出来事

 その日は,腹が減っていた。朝から,腹が減っていた。朝は,6時に起き,30分の瞑想の後に30分の散歩に行き,卵かけご飯にみそ汁,ししゃもを3尾ほど15分の時間をかけ食べた。そして,10分ほどのトイレタイム,歯磨きをして,着替え,靴を履き,仕事へと出発した。このように始まったいつもと同じ一日。しかし,その日は,いつもと違い無性に腹が減っていた。いつもと同じ日のいつもと違う感覚。そして,もう一つ。その日は,出張の予定が入っており,職場ではなく駅に急いだ。いつもと違う,いつも通りの日だった。
 
 その日の昼がやってきた。朝の仕事をやっているといつの間にか昼は来ている。仕事の内容に関わらず,仕事の困難度に関わらず,仕事の忙しさに関わらず,何なら仕事をしていないときも,遊んでいるときも,二度寝をしていても(寝るのも体力がいるのか,最近は二度寝ができなくなってしまったが…),昼はいつの間にかやってきている。それだけではなく,誰かと一緒にいようが,一人でいようが,確実にいつの間にか昼はやってくるのである。その日も,昼はやってきていた。それに気づくと,自分自身とっても嬉しかったことを覚えている。なぜなら,昼が待ち遠しいくらい腹が減っていたからである。「昼だ~!!」と受験の時の吉報がもたらされたときくらいの喜びを感じていた。その記憶は,今でも思い出すと胃袋の裏から広がってくるその時の感覚が蘇ってくる。記憶とは,脳のみで行われるのではなく,身体を通して刻み込まれる機能なのであろう。そして,その想起はまた身体感覚と共に呼び起こされるものであるとその時の体験を通して,実感しており,私に記憶のメカニズムとして記憶されている。
 時は,私の知らない間に進んでいる。私が息を止めても,時は流れ続けている。Stop Skill,すなわち暴走する感情を一時的に停止させるために身体を一瞬フリーズさせたとき,いわゆる「だるまさんが転んだ」でオニが振り返り,私が動きを完全に止めているときにも時は流れているのである。そればかりか,電池が切れて時計が止まっているときでさえ,時の流れは止まらずに進み続けているのである。したがって,その自然の摂理にもれず,読者には停滞にしか感じられない,この物語も先に進んでいく。時の流れは止められないのである。


3.大通り沿いの食堂で考えた


 話は先に進んでいる。昼に,私は大通り沿いの食堂にいた。その店は,ビュッフェ形式の店であった。いわゆる,ボードや陳列棚にある魚料理や肉料理,小鉢,サラダ,刺身,麺類,様々なものを取って食べるという方法を採用している店である。私の心に安堵と喜びが芽生えていた。
 
 なぜ,大通り沿いのその食堂に入ったのか?それは,もう運命としかいう他にない。きっと巡り合わせなのだろう。そういう時ってあるものなのである。私は,強烈に腹が減っていた。もう,歩くのが嫌なくらいに。だから,通りに出て,一番近くの食堂に入ったのだった。でも,その店がビュッフェ形式だったことについては,何にも説明ができない。運である。私は,強烈に腹が減っていて,それを最大限に満たしてくれる食堂とたまたま巡り合った。しかし,そのたまたまは,それを当事者として経験した私にとって偶然とは思えない出会いのように感じられた。一期一会。その時にしか出会わないだろうけど,その時に出会えたことに最大限感謝した。その出会いは,かけがえがないものであると感じられていた。最後の出会いになると,その瞬間を味わい尽くそうと思った。このような出会いを何と表現したらいいのだろう。進化論的にいえば,やはり偶然なのだろう。そして,そのようなたまたまの偶然に環境に適応した種が生き残ったということなのであろう。その後,その道筋が脳裏に焼き付き条件反射的に腹が減るとその道をたどり(実際には出張で言っていた場所だったので二度とその食堂に行くことはない可能性が高いのであるが…),その食堂へ向かう。やがて,腹が減らなくても昼になるとその食堂に行き,そのうちその食堂には行かなくなり,何かのきっかけで再度その食堂に通うことになる。そうやって,僕の意志を超えた脳の働きレスポンデント条件付けによって(パブロフの犬のように)僕の行動は支配されたのかもしれない。でも,そのストーリーの主人公として体験している僕にとってその食堂との出会いは,もう,人智を超えた力が働いているとしか思えない,巡り合わせの力,出会いのモーメントを実感する出来事だった。それほど,私にとって嬉しいことであり,幸せな瞬間だった。

 日本でビュッフェ形式の店が増え始めたのはいつの頃からであろう。今でも多いのだと思うが,町の食堂というと定食屋が一番に思い浮かぶ。大学時代にはお世話になった。お替り自由だったご飯をドンブリで食べられるようにレバニラ定食のタレを多めにかけてくれていた大学の北側の(通称学裏の)定食屋の店主への感謝の思いは,その時に蓄えた腹の贅肉が落ちない限り無くなることはないだろう。でも,その日は,定食屋ではなかった。ビュッフェだった。きっと,その日の私は,定食屋では満足しなかっただろう。その日偶然入ったその食堂が,定食屋だったら…。私は,きっと自分の「定食屋でよかった」と言う声を胸のうちに聴いただろう。でも,それは,私がそのビュッフェ形式の食堂を知らなかったからであろう。その日たまたま入ったその食堂が定食屋なら,私はビュッフェ形式の食堂という存在をその空腹のため意識しないままに定食を食べ,満足していたと思う。しかし,そこで一抹の心配が頭をよぎる。それは何か?その日,朝から腹が減り過ぎていた私に,定食が選べるのかという問題である。それは,そのままビュッフェ形式のお店の利点になる。私の幸福感の根源に関することである。

 私は,今までの経験上,定食屋に感謝している。腹を満たし,優しさを与えてくれた定食屋は,私に多くの幸福感をもたらしてくれた。一方で,いつも定食屋で困ったことがあった。その日,どんな定食で腹を満たすのか?その選択に困るということである。定食屋は,いつもorで選択(choice)を迫られる。その日は,から揚げなのか?レバニラなのか?とんかつなのか?野菜炒めなのか?ラーメンなのか?ちょっと奮発してステーキなのか?それともカレーなのか?常にその時の最善は何なのか悩ましいのである。どれも私の胃袋を刺激するのである。時に,店主に相談する。回らない寿司屋の大将のように(あんまり行ったことはないけれど)「今日はこれがおすすめ」とは言ってくれない。「どれでもサービスしとくよ」その言葉は嬉しいが,どれもそれだけで十分とはいかないような予感が食べるまで付きまとうのである。その日,どの定食を食べることがいいのか?自分とのマッチングが重要になる。さらに,定食はそれだけで完成していることが求められる。その一食にかける思いに応えてくれるものを選びたい。そうなると,多少変化はあるものの,ご飯,メイン,小鉢,汁物,香の物とたいていそこに備わる品は決まってくる。時に独創的なものはあるものの,平均的にイメージができ,私たちのニーズに応えてくれるものであり,安心感がある。

 一方で,ビュッフェ形式の食堂は,andでつなぐことができる。とんかつだけでは足りないものを小鉢で補ったり,ちょっと刺身もつまんだりしたくなる,そんな食いしん坊の心を満たしてくれる。それ一品ではちょっとずつ足りないものを,それぞれ補ってくれるのである。この満足感は計り知れない。食堂に備わっている料理(商品)を,自分の(意向にそって)必要なものを取ることによって,数多くの組み合わせを自由に想像することが可能である。これは,私の幸福感に対する可能性を最大限に広げてくれる。これらは,定食屋にはない魅力である。ただ,そんなビュッフェ形式の食堂にも弱点がある。実際,その日の私自身がどうだったのか,その話を通して考えてみたい。

 奇跡的な出会いによってビュッフェ形式の食堂に入った私であったが,やはり悩んでいた。品数が多くて,流れ作業のようにとっていくシステムであるため,後ろの客が気になっていたためであった。私は,流れからはずれて,陳列棚から少し離れた場所でお盆だけ持って作戦を考えていた。今,自分は何が食べたいのか自分に問いかけていた。そう,ビュッフェ形式の食堂は,自分との会話が必須なのである。ただ,その会話は気をつけないと堂々巡りになる可能性を秘めており,お盆の上に妥協の産物の取り合わせが並ぶこともある。また,自分との対話だけでは,ビュッフェ形式の食堂はダメである。現実とも向かい合う必要がある。その一つが,コストの(いわゆる経済的)観点である。例えば,定食なら明朗会計であるが,ビュッフェ形式はそうはいかない。一皿,一品ごとに値段が決まっているため,財布と相談しながら現実を直視し,組み合わせを決めていく必要がある。自分と向かい合い,現実と向かい合う,これはなかなか骨が折れる作業である。こんな時には,昔近所にあったラーメン屋が懐かしい。ラーメン定食680円一本である。選択の余地はない。決めたくない日も時にはあるということを,私はこれまで経験してきている。


4.不安や葛藤から抜け出すには

 話はズレたが,その日私は自分と対話が進むほどに余裕はなかった。腹が減っていたのである。朝から感じていた程に腹が減っていたのである。そんな日は,自分との対話は進まない。余裕がない。堂々巡りになるか,ろくなことは考えない。何をしても満足しないように思える。でも,時間は過ぎていく。そう,気づかないうちに時間は流れるのである。昼は過ぎ,午後のワークの時間がやってくるのである。「食べない」という選択ができるほど,食べたい欲求を押さえる力を私の前頭葉は持ち合わせていなかった。この食事で満足したいという(欲に基づく)思考と食べたいという(本能的・本質的な)欲の間でおこる葛藤。満足しきれなかったらどうする?がっかりしている,満足しきれていない自分のイメージ,昼食を食べそこなった大学時代のバイトの時の思い出,そんなときは,ろくなことを考えないのである。妄想が暴走して,過去や未来をタイムトラベルしていた。そんな時は,どうするのか?とにかく動くに限る。エンデ作『モモ』でベッポが言うように,ディズニーの映画『アナと雪の女王2』でアナが言うように「目の前の,今,出来ることに取り組む」のである。そう,私は,あるがまま,心の赴くままに列に並びなおし,料理のさらに手を伸ばし,食べたいと思うものをお盆に置いた。なかなかいい取り合わせだった。少々,財布に痛みを感じたが,満足感は高かった。ただ,食べた後が大変だった。満腹感が必要以上に感じられたからである。

 何事もバランスが重要であることを学んだように思えた午後であった。(了)



5.追記(お詫び)

※今回のお話では,副題のコンピテンシー教育とケイパビリティ教育について,字数などの都合上,直接言及してはおりません。しかし,それについての考察が今回の記事のきっかけだったことは間違いありません。

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