眼球を取り外して洗った話

 目が痒い。夕暮れの犬の散歩中、たわわに実った稲穂が揺れる畦道でふと気が付いた。そういえば今日は一日中、目の調子が悪かったような気がする。
 自覚すると人の体とは面白い。目が痒くて痒くて仕方なくなってくる。左手に手綱、右手にスコップ、痒いのは左目。仕事から帰ってから、まだ手を洗っていない。どうせ散歩で汚れるからと横着したせいだ。もう無性に目が掻きたい。
 しかし、先ほど愛犬の落とし物を処理したばかりだ。直接触れてはいないが、さすがに憚られる。だが、痒さは増すばかり、左目には何か細かい針が刺さったような異物感と同時に涙が滲んでくる。
 「……まぁ、いっか」
 軽い気持ちで綱を緩め、ひと思いに人差し指の第二関節の出っ張りを利用して目を擦った。一度掻くとたまらない。関節のひんやりとした感覚が眼球へダイレクトに伝わってくる。急激に眼球が冷やされていく事と、痒さから解放された事、一心不乱に目を掻いてしまった。
 「あ、ごめん」
 愛犬が悩ましげにこちらを見ていることに気づき、目を掻くのをやめて散歩を再開させた。掻き終わった眼球からは圧縮されたスポンジのように水が溢れてくる。山際に沈む夕日の光が涙の中で乱反射し、美しいステンドグラスのようだった。

 ……やってしまった。目が痒い。痒いと言うか、眼球にくまなく細かい粒が張り付いているような異物感がある。擬音にするとゴロゴロ、またはゴニュゴニョ。洗面台で見てみると、白目がひび割れたように赤い線が入っている。ところどころ、赤が大きく節くれ、雲母の欠片のようになっているのもなかなか不穏だった。
 「しょうがない、外すか」
 こういう時は一度外してちゃんと綺麗に洗ったほうが予後が良い。目薬もいいが、ここは効能と快楽を優先しよう。
 まず適当なコップ、これは清潔かつ透明なものが良い。清潔なのは言わずもがな、透明なのは観察がしやすいからだ。それとそのコップに注ぐ、よく冷えた水。出来ればこれも清潔なものが好ましい。そして中をかき混ぜる適当なもの。自分は面倒くさがりだから適当な割りばしやスプーンを使ってしまう。今回はコンビニでもらったストローを使おう。
 キンキンに冷えた水が入ったコップを手元に置き、準備を済ませると、左目に手を伸ばした。ジンジンと熱く痒い眼球に小指以外の四指が近づいてくる。瞼をあらん限り開き、柔らかい眼球と硬い骨の隙間に指が沈んでいく。白目がぐにゅっと潰れる感触とともに視界が徐々に黒い影に広がった。
 感じる圧迫感。自分の体の一部が潰れていく感覚なのに心地よく感じるのは、目が炎症を起こしているからだろうか。眼球に掛かる圧が一定以上になると、
 「ぅおう!!」
 すぽんっ、と小気味よい音とともに眼球が掌に飛び出してきた。同時に視界が左半分消え、見えなくなる。右目が左目を見ているという感覚は何だか不思議と笑えてくる。
  掌の上を転がる眼球は、一味唐辛子を振りかけた白玉にも似ており、体温より暖かく感じるのは汚れた手で掻いたせいで炎症を起こしているからだろうか。その証拠に、視界はないが、眼球が左手を冷たく感じているのが分かる。脳に感覚が伝わるのだ。
 この、熱を帯びた眼球を冷水に浸けるとどうなるだろうか。考えただけでもたまらない。
 「…………」
 数呼吸、間を開けると一思いにコップの中に眼球を落とした。途端――
 「――――っ!!」
 背筋を突き抜ける寒気。産毛が逆立ち、鳥肌が一斉に沸き立った。冷水で締める、それだけで快感が駆け抜ける。まるで稲妻。
 コップの中で眼球は沈み、浮かび上がってくる。黒目あたりから黒い汚れがうっすらと浮かび上がり、清浄な水の中、煙のように棚引いた。熱が一気に冷めていくのが分かる。眼球を通じて、痛いほど冷たく感じていた水が、徐々に馴染んでいくのを感じた。
 ひとしきり、水の心地よさを堪能すると、次にストローを入れる。ゆっくりと差し込むがそれでも水流が発生し、再度、眼球に新鮮な冷たさが流れ込んだ。気持ちがいい。
 ゆっくり、と。ストローをかき混ぜる。冷たさを楽しむと同時に、眼球から赤いモノが剥がれていくのを感じる。
 「お、取れてきた」
 最初は植物の根にも似た赤い紐が解れてくる。何本も剥がれてきたため、まるで浮かぶ球根にも似ている。少しずつ剥がれ、それぞれがその根を伸ばしている赤い塊にしがみついている。一つの節くれに大体3、4本の根が伸びており、それがゆっくりペリペリと剥がれる感触は、瘡蓋が剥がれるのにも似る。敏感な眼球は、ダイレクトにその快感を感じさせてくれる。特に、この節くれは、そのサイズのためなのか、剥がれるのに時間がかかる。しかし水流で根が引っ張られることで、徐々に剥がれ始め、それが何とも言えない快感を生み出す。情けないが、よだれが出るほど気持ちがいい。
 カラカラと回すうちに、細かい赤い粒が剥がれ、渦の中心に集まり始める。幾本か千切れた根も底でクルクルと円を描く。気が付くと、その赤い粒子の中に黒いモノが見えた。目を凝らすと――それは羽虫だった。
 きっとそれは、眼球の裏側にでも付いていたのだろう。僅かに溶けて泥状になっている。嫌悪感よりも、それが取れた清々しさが勝った。 
 ひとしきり回し終わると、眼球の熱を吸い上げたためか、水が温く感じ始め、随分と水も赤く汚れてしまった。左目も随分と綺麗になったため、直接水の中から取り出すと、見違えるように白くなった眼球が、部屋の蛍光灯の光を映していた。
 滴る水が掌を通じて肘へと流れ、落ちていく。摘まみ上げた眼球を軽く流水で濯ぎ、窪みに押し当て、力を込める。すると、あっさりと元在った場所へと収まった。
 幾分具合が悪く、黒目がずれてしまっているため、何度か瞬きをすると、人体の持つ恒常性のおかげか、元の位置へと戻り、視力も戻った。
 よく冷えた眼球は、血管が締まったおかげか、その窪みもついでに冷却してくれて何とも心地よかった。痒さも随分と減り、腫れぼったさも消えた。最初こそ滲んでいた視界も徐々にくっきりと見えるようになると、コップに残った水の中に、白い澱みのようなモノを見つけ、肝が冷えた。また、その赤い粒の多いこと。これでは痒くて仕方ないのも納得だった。
 「……なに?」
 足元にくすぐったい感触。我が愛犬が、上目遣いでこちらを見ている――足に尻尾を絡ませて。
 そういえば餌をあげるのを忘れていた。ごめんごめん、と声に出すと愛犬もワンッと返事を返す。現金なヤツめ、こういう時しか返事しないな、と抱きかかえて餌を取りに向かった。

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