見出し画像

「自分の頭で考えろ」という言説には、「うるせー!」と言わざるを得ないのが現状

こんにちは。矢口泰介と申します。このnoteは、私の個人ブログ「ヤトミックカフェ」の姉妹ブログです。私が生活しながら気づいたこと、思ったことを書き留めていきます。

「考える」ことにまつわるコンプレックス

私の人生には、恥ずかしながらコンプレックスが複雑に絡んでいます。そのなかでも、「考える」ということにまつわることがいくつかあります。

いわく

  1. 自分の頭で考えられない

  2. 自分のことばかりを考えてしまう(他者を思いやれない)

  3. 考えてばかりで行動できない

といったようなことです。過去、上記のようなことを言われてきて、「ああ、自分は自己中心的で、自分の頭で考えられなくて、おまけに行動できないクソ野郎なんだな」という自己認知が固着化してしまっていました。

ああこれを一体どうしたらいいのだろう、私という人間は、もうどうしたら、と長らく落ち込んできたのですが、ふと、そもそも、問題設定が変だぞと思ったわけなのです。

なぜ自分の考えのことを人に指示されないといけないのか」と。

自分の頭で考えろ、と人に命令される矛盾

世の中のマネージャーは、部下に対し「自分の頭で考えてほしい」とよく言います。でも、それはおかしくて、よく考えたらそれは矛盾です。命令されている時点で、自分の頭で考えていないことになってしまわないでしょうか。

実はよく言われる「自分の頭で考えろ」というのは、「俺の(私の)許容できるような行動をしろ」というメッセージが含まれているんじゃないか。意地悪な見方もしれないですけどね。

なぜ「自分の頭で考えろ」という命令が機能してしまうのか

でも実際に「自分の頭で考えろ」という言説は機能していますし、「自分の頭で考えられない人」というのは、存在することになっています。

おそらくそこには、複雑な前提条件(社会文化、組織におけるヒエラルキー構造、人間観や仕事観など・・・)がいくつか絡んでいると思うんですが、これはまた別に書こうと思います。

私のことについて書きます。

私は「自分の頭で考えろ」と言われて、これまで罪悪感を抱いたり、反省したり、焦ったり、プレッシャーを感じてしまっていました。そして真面目に「自分の頭で考えなければ・・・」と思っていたわけなのですね。

でも、さっき書いたようにこれは矛盾で、実はそれは「自分の頭で考えていなくて、人の命令をそのまま受け入れている状態」です。
「自分の頭で考えろ!」と言われて、相手が自分に何を望んでいるのかを探っていたら、本末転倒ですよね。

実は「自分の頭で考えろ!」と言われて萎縮してしまう人(自分の頭で考えろ、という矛盾的命令を許してしまっている人)というのは、「自分で考えていい・自分で動いていい」という、思考や意思決定の自由を自分に許せていないんじゃないでしょうか。だから、理不尽な言説にも従ってしまう。

自分の考えを持つことができない人がいる

このように「自分で考えることを自分に許せていない人」というのが、世の中には存在します。私も自分がそうだという認知があります。

それは自分の考えを言ったり、自分の感情を出したりすることを、人生のどこかで我慢したり、禁じられたりしたことで、「自分の考えや感情を出さない」ことを習慣化してしまった人です。

そういう人は、自分の考えを持つことを、無意識に「良くない」こととしてとらえるので、自分の考えを持つという習慣や、そのための回路がない状態です。そしてどうするかというと、他者に考えを委ね、他者に行動を決めてもらわなければいけない、と決めてしまっています。
だから「自分の頭で考えろ」という矛盾的命令も、違和感なく受け入れてしまうのです。

そもそも「考える」ってなに?

しかしながら、「じゃあ、自分の頭で考えればいいんですね!」というのが、「自分で考えることを自分に許せていない人」には、まず難しいと思うのです。

いやいや、そんなわけないでしょ。人間というのは脳がある限りいつも考えているものだし、人間は考える葦なのよ、と、言う人もいるかも知れませんが。

確かに、頭脳活動としてはあるけれど、「自分で考えることを自分に許せていない人」は、「生産的に考える」ということができていないのです。超簡単にいうと、「自分のことを幸せにするために考える力を使う」ことができない、ということです。

例えば、「考えている」ようでいて、どこにも行き着かない「反芻」をしてしまっている人。

自分はなぜあんな事を言ってしまったんだろうとか、あの人はなぜあんなことを言ったんだろうとか、もっとひどいときは、あの人はきっと自分のことが嫌いに違いないとか、どこにも行き着かない考えによって、自分を責め続けている、そういうのは、「反芻」といって、「考えている」とは実は区別されるものです。

また、考えて」ばかりで、行動に行き着かないことも。行動しないと、何かを進めたり、変えることはできません。行動するといっても、大層なものじゃなくて「試しにこれやってみよう」とか「これ話してみよう」という簡単なことも含むのですが。

そういう「自分で自分を責める」ことをし続けたり、自分が幸せになるための行動をしなかったり、というのは「考える」ことを生産的にできていない状態と言えます。

ポッドキャスト「となりの雑談」でおなじみの桜林直子さんは、考える人の連載「あなたには世界がどう見えているか教えてよ 雑談のススメ」で、このようなことを書いていました。

 考え始めるときに「わたしは何が嫌だったのか」という問いを立て、それがわかれば考えるのを終わらせることができる。問いに対してすぐに正確な答えが出ずに時間がかかっても、そこに向かって考え続けることが悪いこととは思わない。

 しかし、「あの人は何でそんなことを言ったのか」と考え続けるのは、答えは「わからない」でしかないので、それについて考え続けてもキリがなく、終わらない。挙げ句の果てに「きっとわたしがダメな人間だからだ」と思い込みの結論に達したり、「そういえばあの時もそうだった」「いつもこうだ」などと関係ないものを持ち出したりもしてしまう。長く時間をかければかけるほど苦しくなるだろう。

 同じように頭の中で考えるという行為でも、わたしにとっては問いのないもの終わりのないものは「想像」や「妄想」で、「考えている」と捉えていないのかもしれない。

4.よい雑談とは?——「ひとりで考える」と「誰かに相談する」の間

「考える」ことを自分自身に取り戻す練習を

思想信条の自由は憲法でも保証されていますが、そんなところをわざわざ持ち出すまでもなく、本来、頭の中は自由で、考えるとは、自分のものです。

でも、自分で自分にそれを許していなければ、自分の考えを持つことはできず、常に「人の意見」がないと行動できないことになってしまいますし、何よりそれは自分の人生を生きていることになりません

かくいう私も、ずっとどこか自分の人生に不全感を感じていたのですが、おそらく自分の考えや感情に気がついて、それを持つことを自分に許して、それを外に出し、叶える、ということができていなかったのかもしれません。

そういう状態で「自分の頭で考えろ」というメッセージを受け取ってしまったら、相手の望みを探り、さも「自分の考え」かのようにして、相手の期待に応える行動を取るなど、自分のコントロールを他人に委ねることになってしまいます。

そういう人は、自分の考えや感情に気づき、適切に外に出していく、ということを練習しないといけないのですね。

ということで、冒頭の「考えることにまつわるコンプレックス」についてですが、人生長らく自分を苦しめてきたあいつらは、いったん保留にして、願わくば「うるせー!」とうっちゃってしまおうか、と考えているところです。

ヤトミックカフェの関連記事紹介


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?