発達障害児を教える仕事に就いて、自分もその傾向があると気づいた話
どうにも生きづらいというのは、うすうす気づいていた。
小さい頃から、得意なことと苦手なことの凸凹が大きかった。
読んだり書いたりは好きで得意だけど、電気を消すとか使ったものを元に戻すとか、みんなが当たり前にできることがなかなかできない。びっくりするくらい忘れ物が多い。
”おっちょこちょい”では済まされない最強うっかりエピソードにも事欠かなくて、
両親からは、
「女の子なのに、だらしない」
「どうしてこんなこともできないの?」
「なんでわからないの?」
とよく問い詰められて、すごく困った。
どうしてできないのかなんでわからないのか、自分自身でもさっぱりわからなかったからだ。気をつけてるつもり、頑張ってるつもりなのに、どういうわけかうまくできない。
そのあと私は大学に進学して、就職もして、周りの人たちや環境に恵まれて、総じて楽しくやってきた。けれどもやっぱり、自分は人より不器用でうまくできないことが多いなあと感じている。
発達障害のお子さんに教え始めて
自分の生きづらさが原点にあるせいか、ありのままで互いを認め合える居場所作りや教育に、とても興味があった。
そういうわけで今の会社に就職して、発達障害のお子さんを教える指導員の仕事を始めたのだった。
2歳から高校生まで、幅広い年齢の個性豊かな子どもたちに教えるのはとっても楽しかった。
じっと座っていられなくて学校では怒られてばかりの子が、すごいアイデア力の持ち主だったり。
人と話すことが苦手で意思表示のできない子が、信じられないくらい歴史に詳しかったり。
いろんな凸凹を愛おしいなあと思いながら、先生の仕事をしていた。
***
発達障害について学ぶと、様々な人の「特性」について知る。
そのなかで知った、「不注意」「過集中」といった特性。これらが自分によく当てはまることに気がついた。
いつもの通勤路なのに乗り換えを間違えて終電を逃してタクシー帰宅。(不注意)とか、作業や読書に集中するとやめられなくなって遅刻。(過集中)とか、
それはもう、今までやらかしてきたさまざまなことが説明できる。
ーどうやら自分は、ADHD(どちらかというとADD)傾向がつよめかもしれない…。
だからどうというわけでもないのだけど、自分の説明書は格段につくりやすくなったと思う。
頑張り方を変えるということ
先生としての私は、子どもたちに対して
「そのままの自分でいいんだよ」
「それもあなたの個性だよ」
と伝えることが多かった。
けれど一方で、凸凹な自身を鑑みると、
「 ”それも個性のひとつ”って、そんなに簡単に言わないで。 」
という思いもある。
診断の有無に関わらず、特性を免罪符にはしたくない。
例えば自分のせいで人にひどく迷惑をかけてしまったとき、
「仕方ない、これも個性だよね!」とは思えないし、仮にそんなふうに開き直られたら、周りの人はモヤっとするだろう。
”凸凹の凸に注目してのばしていこう!”
と、お子さんや親御さんたちに伝えてきたけれど、だからといって自分の凹を見て見ぬふりしていいわけではないし、頑張らなくて良いというわけでもない。
もちろん、失敗した自分や他人を責めれば良いというわけでもない。
そうじゃなくて、「頑張り方」を変えれば良いんだと思う。
他の人とおんなじやり方で頑張らなくて良いから、自分にあったやり方で頑張る。
1人で頑張らなくて良いから、人への頼り方を考える。
自分にあう頑張り方も人への頼り方も、自分で自分のことを分かってはじめて、考えられるようになる。
だから、凸も凹もふくめて自分自身のことを客観的に知らないといけないし、本当の自分を受容しないといけないのだと思う。
***
不器用でたくさん失敗するし、最初からうまくできることはほぼないけれど、ちょっとずつ積み重ねていくことならできる。
自分のことをいつも「肯定」できるわけではないけど、「知ること」ならできる。
多様性は「言い訳」ではなくて「力」にしたいから、「甘えること」と「頼ること」を履き違えないように。
そして、「みんな違っていい」ということを、
スローガンではなくて、言わずもがなにしたい。
だって、当たり前だから。
自分に対しても他人に対しても、
「なんでできないの?」と責めるのではなく、
「できなくっていい」と開き直るのでもなく、
「どうしたらできるかな?」と考えられるようにしたい。
自分も本当にまだまだなのだけど、
自戒をこめて。
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