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「推し」のグッズに興味が無い、グッズが欲しくないオタクの生きづらさ(前)

が半端ない、という記事です。

主にコミュニティの中での「アイデンティティ」証明、「キャラ」の確立に失敗した人間の生きづらさとそこからの脱却について語っており、若干のタイトル詐欺感が否めませんが、少しでも検索に引っかかりやすく、今まさに「オタクなのに推しのグッズに興味が持てない」ことで苦しんでいる人に届きやすくするための題名です。ご了承ください。


※この記事ではオタク、という言葉を主に二次元のオタクの意で用いています。また、カップリング文化にも少し否定的ととれる表現があるため、不快に思われましたらすみません。
※地味にデスノートのネタバレ要素があります。気をつけてください

導入

アニメやマンガを主な趣味とするオタクのはずなのに、周りの子達のようにグッズを買う気になれない、という性で子供の頃から損ばかりしてきた。
一緒にアニメイトに行っても、周りの「推し」グッズを買い漁る勢いについていけない。
関連商品を1500円以上買えば好きなジャンルの限定グッズがもらえるらしく、これを逃すのは損な気がするから、無難なものでなんとか1500円を
使おうとするけど、びっくりするくらい欲しいものが無い。
これなら一発で1500円使えるじゃんと気づき急かされるように買った欲しくもない「推し」のアクリルスタンドは多分永久に組み立てられないまま
引き出しの奥で眠ることになるだろう……

急に小説始めんな!というツッコミはさておき、こんな経験をした方はそれなりにいるのではないか。

私がここで主張したい事を、特定の用語をこねくり回して多くの人に共感してもらうのは難しいと思う。なので、本記事では具体的なシチュエーションを示すことで「グッズ欲しく無いオタク」に見える世界を表現していく。

ここまで読んだ方で、この記事のタイトルに共感する方は、引用形式で示されるこれらのシチュエーションは飛ばし、その下にある本文を読んでいただいても理解に問題はないと思う。逆に、タイトルにしっくりこない方は読んでいただいた方が、記事の趣旨を掴みやすいと推測される。


①苦しかった日々

グッズが欲しい、という欲望を理解できない


友達グループで好きな漫画の原画展に行った。
原作の感動的なシーンの余韻に浸りつつ皆でショップに向かう。
いつのまにか自分以外のみんなは会計列に並んでいる。何かしらグッズを
一つは購入する気みたいだ。
自分も何か購入しないと、熱気に水を差してしまう。
いつもなら、こういう時は適当にランダム系のグッズを買う。「開封の儀」で盛り上がれるし、誰かの「推し」を引けばその子も喜ぶし、グッズが無駄にならない。でもその時はたまたまランダム系グッズが無くて本当に何も買いたくなかった。 
「〇〇ちゃんは何買う⁈」と友達は興奮の冷めない様子で、心の底から楽しそうに私に語りかける。
なんとか、空気を壊さないように断らなきゃ。
とりあえず金欠って言っとくか……。今日は18日、一応月の後半だからなんとか信じてもらえるはず……。

ネットで「オタク グッズ買わない」「オタク グッズ欲しくない」などのワードで検索をかけると、「グッズを買わないオタク」の言い分が出てくる。

  • なるべくお金を使いたくない

  • オタクグッズは大抵ダサくて安っぽいから欲しくない

  • 「買わされてる」感が嫌だ

どれも最もな意見だし、そのような感性自体は否定できない。マジョリティである「グッズを買うオタク」の前で口に出す事は憚られるだけで。


実際、「グッズを買うオタク」の中にもこうした感情に覚えがある人はそれなりにいると思うし、それだけこれらの意見には説得力がある。

それでも、「グッズを買わないオタク」の世界観がこの三つの意見に完全に集約されているかと言うと、どうも腑に落ちない。先程の主張は多くの場合、下のように言い換えが可能だ。

  • コンテンツ自体にはお金を落とすがグッズにはお金を払いたくない

  • 他人から見えないようにしまっておく事もできるけど、ダサいグッズを買いたくない

  • コンテンツそのものや、その派生イベントに対して自分が消費者である事に抵抗感は無いが、グッズの消費者になりたくない

何かしらの商業化されたコンテンツのファンである限り、避けられない金銭の支払いは存在するだろうし、グッズは必ずしも自分が「〇〇のオタク」「○○推し」であることを他者に表現するためだけの道具ではない。

私は上の主張に潜む矛盾を弾劾したい訳ではない。ただ、先程の三つの主張はそれ自体がグッズを買いたくないと思う「理由」ではなく、むしろ「グッズが欲しくない」という感情が探し出した、二次的な「釈明」なのではないかと推察している。



自分の場合、グッズが欲しく無いという感情を突き詰めたところにあったのは「要らない物を無理に買うのが嫌だ」という感覚だった。
しかしこの感覚も結局は
「グッズが欲しくないからグッズが欲しくない」
というトートロジー、進次郎構文であり、自分が何故
グッズを要らない、グッズを買いたくないのかは今も分からない。

それでも一つ気づいたことがある。自分には「グッズなんて買ってたまるか!」的な、グッズ消費に対する明確な敵意は無い。

ただ、「グッズが欲しい」という感覚が無いのだ。別にグッズを絶対に買わない訳ではない。実用性が高かったり、デザインが優れていたり、グッズ化自体が珍しいキャラのグッズ等を買う事はある。
でも、好きなコンテンツのグッズを見て無条件に欲しいとは思わない。

マイノリティだけが自らの証明を迫られる

友達のAが、そのまた友達のBに私を紹介している。
私とBは初対面だった。
「Aの友達って事はさ、〇〇(私)もオタクなのー?」
Bの質問に対し、Aは
「〇〇はそこまでディープじゃないかなー。グッズとかもそんなに買わないし」
と答えた。私はショックだった。
え?私にはオタクの資格が無いってこと?好きなアニメや漫画の話をあれだけ一緒にしたのに、今まで内心ではずっとそう思ってたの……?
いや、そんなはずない、Aは私に気を遣ってくれたんだ。そのはずだ。
「私ってオタクだよね?」
友達グループで一番仲がいいCに聞いてみた。
「当たり前じゃん」って即座に返してくれると信じて。でも現実は違った。
「いやー、どうだろ?二次(ファンアート)も書いてないし、アニメイトとか行ってもつまんなそうにしてるから、あんまそう見えないかも。無理して
私達に合わせなくていいよ」
もう少し遠回しだったけど、大体こんな感じのことを言われた。
私が心の底から仲良しだと思っていた、溶け込めていると思っていた集団は、本当は私を拒絶していた。私は「オタク」集団に属するに値しないと、私を見下していたんだ。流石にこれは被害妄想か?でも
他の皆は「私達はオタク」と承認しあえるのに、私だけその輪から疎外されているのだと知ってしまった今、知る前にはもう戻れない。寂しい。
寂しいだけじゃなくて、悔しい。オタクじゃないと他人に勝手にジャッジされることで、自分のコンテンツへの好き、までもが踏み躙られた気がする。
結局の所、何かわかりやすいモノがないと、周りは私をオタクとは認めない。ポケモン全部言える、
アニメの作画マン分かる、吐息で声優当てられる、
みたいな。
グッズを買って、それを身につけることが、最も簡単で、才能が要らない「オタクの証明」なのだ。それは
理解できる。理解できるからこそ、
アイデンティティの証明のためにグッズを買わされると考えるとますますグッズを買うのが嫌になる。

これはオタ活、もとい推し活に限った話ではないが、コミュニティ内の最低限の規範に添えない人間は、どうしても「浮く」し、それを埋め合わせるだけのものがなければ、集団の一員としての地位を確立するのは難しい。

私個人は特に絵が上手い、みたいなスキルがあった訳でもなく、またカップリング文化にも馴染めなかったため(この点はまた別の記事にしたい)、「グッズを買わない」という異常性を乗り越えて周囲にオタクと認識されるのは相当厳しかった。
これを読んでくれている方も、「それもうオタクじゃないやん」と感じたかもしれない。

それでも私は自分自身をオタクだと思っているし、それを他人に否定されたくない。

私って何?

「自分とは何か」
このいかにも思春期らしい問いは、中高生の私にとってこれ以上無く切実だった。正確には「自分が何オタクなのか」にスケールダウンされてはいるのだが。
学校内のグループに溶け込むために、私はこの問いに一刻も早く、自他を納得されられる答えを導出する必要があった。
当時他のグループには私の居場所なんてありそうも無かったから今のグループを抜ける選択肢は無かった。
学校だけが世界じゃない、それくらい子供でも皆最初から分かっている。
でも起きている時間のほとんどを学校で過ごす子供達にとって、学校以外の居場所で過ごせる時間はそう長くは無いから、結局の所学校が事実上の「世界」で、そしてその中の友達グループでうまくやれなければ「詰み」なのだ。
(そして受験で苦労して入った学校に行かないとか辞めると言った選択をとる気に、当時はなれなかった)
とにかく、自分のオタクとしての適切なカテゴリを見つけさえすれば、
「詰み」の状態からは脱せられる。
「世界」が私に酸素をくれるようになる。
グッズを買うという行動でオタクの証明をしたくないのなら、スタンスでアピールするべきだ。
でも、得意な事は無いし、推しが他のキャラや自分とイチャイチャしてるのを見るのは嫌だから「カプ」も「夢」も苦手だ。伏線とか細かい描写の意味を探すのが好きだから考察厨が比較的しっくりくるけど、それも「ワンピースの正体当てた」みたいな実績が要るし……
それに考察厨は蔑称に近いため「私って考察厨だからさ〜」みたいな感じでコミュニケーションを円滑に取れるビジョンはあまり見えない。
だめだ、「詰み」状態からの打開策がまるで見つからない。
溜り続けるフラストレーションはやがて周囲やSNS上の「楽しそうに過ごしているオタク」、私が入れないあの輪の中で過ごすことを許されているオタク達への憎しみに転じ始める。
考えるの疲れた、もうどうでもいいや、っていうかそもそも何で私が「向こう側」に合わせないといけないの?
だってオタクってそもそも好きでやるものであって、誰かを仲間はずれにするためのものじゃない、間違ってるのはあっちだ、私を疎外する奴等の方だ。
あいつらはダサいグッズを他人に見せびらかして、好きなコンテンツを他人との仲良しごっこのツールとして利用する、最低なやつらだ!
自分だって周囲に馴染むためにコンテンツを利用しているのにそれを棚に上げながら、「オタク グッズ 欲しくない」「オタク グッズ 嫌い」などのワードで検索をかけ、ネット上に同じ意見を持つ「仲間」を探し始める。
現実が良くならなくても、せめて同じ考えの人がいれば少しは溜飲が下がるはずだ。
「グッズが利益率高いんだから、コンテンツを支えるにも買うべきなのは明白。買わないのは怠慢、『オタク』をアイデンティティに利用しているだけ」
「自分こそが物語を楽しむ正当なファンなんだ、みたいな態度が鼻につく」
正しい部分や、思い当たる節が全く無いわけでは無いけど、それでもやはり攻撃的すぎる言説にメンタルをズタボロにされながら、様々なオタクを見つけた。
「オタクバレは絶対に嫌だから、バレるようなものを買いたくない。買いに行っているところを見られくない」
「生活が本当に苦しい。そんな贅沢をする気にはなれない」
あっそ、別に私はそう思わないな……。画面から目を離す。どれだけの時間を費やしても、ネットという情報の大海の中にすら、私と同じような感覚のオタクは見つからなかった。じゃあもう、多分この世のどこにも私の気持ちや苦しみを分かってくれる人はいないのだろうか。

自分に似たタイプの「オタク」がリアルにもネットにも見つからず、絶望する夜が何度も繰り返されたし、当時は一生このループから逃れられない気がした。
こうして鬱々としていた時間は、純粋にコンテンツを楽しんでいた時間と同じくらい長いか、それ以上だったとすら思う。

圧倒的に話が通じない


友達Dと、最近何のアニメにハマっているかの話をした。
「去年はずっと△△ってジャンルに狂っててさ!
ストーリーがカクカクシカジカで超面白くて」
好きなジャンルだとついマシンガントークをかましてしまう。でもさっきまでDの好きなコンテンツを小一時間くらい布教された気がするからお互い様なはず。
「私もついこの間△△読んだよー。続き気になりすぎて、『推し』とか
『関係性』に萌える暇もなかった!一気に最新話まで追っちゃった!」

意外だ、Dの好みの作品ではない気がしたのに、これは嬉しい誤算だ。これはしばらくDと△△について話をした後でふと私が漏らした一言。
「ああ、確かに△△のグッズってあんま見ないかも。
そもそも展開もそんなして無さそうだしね。まあ話が面白いからそれで満足かな」

それを聞いたDは不思議そうに
「あれ?〇〇もそうなの?二次漁るとか、グッズ漁る程ではないんだ?」

と返してくる。私も困惑した。何秒か考えて、Dはコンテンツが好きなら
必然的にファンアートに触れ、関連商品を買いたくなるものだという仮定で話しているのか、と気づいた。そしてそれは私の感覚とはかけ離れていた。
「あ、いや、絵がちょっと無機質だからさ、アレに萌えるのムズくない?」
「えっと、絵はあんまり好きじゃないってこと?」

Dの中では萌える絵=好きな絵らしい。これもよく分からない。
「あの、そうじゃなくて、普通に絵も好きなんだけど……。キャラデザがイカつめだから、グッズも集める気になれなくてね」
「ああ、そうなんだ。そこまでではないんだね」

違う!なんでそうなるの?なんでグッズを集めない=あまりハマっていないになるの?
なんだこれ、全然話が通じない……。
D はずっと気の合う友達だと思ってた。金銭感覚とか、人間関係の距離感とか、食の好みでさえもピッタリ合うから、「前世は双子かも」なんて言い合いもしたはずなのに、急にDが宇宙人みたいに見える。
多分向こうもそう思っているのだろう。

「界隈」のルールに従って行動できない人間がその成員として承認される難しさについては上で述べた。

そしてこの世には振る舞いだけでなく、感情の面でも、多くの人間が自然に自らを当て嵌められる欲望のフレームが存在する。
そして、その枠からはみ出た欲望は「変態趣味」「異常性癖」として
無いもの、
理解しなくていいもの、
軽んじていいものとして扱われる。

逆に枠の中の欲望を抱けない人間は、たとえ誰にも迷惑をかけていなくても即座に「異常者」のレッテルを貼られ、コミュニケーションが不可能な「触れてはいけない人」として周縁化される。


私は「グッズを買わない」という行動面だけでなく、「グッズが欲しく無い」(+CPを推せない)意味で感情としても、「輪」を形成する「枠」に適合できなかった。
自分にとっての「普通」は他の多くのオタクにとって普通じゃないため、会話のあらゆる部分で食い違いが発生する。

そして互いの行動が意味する感情を、一歩一歩確かめねばならなくなる。
こう書くと、「相互理解」といった感じである種のロマンの香りがするが、現実はそうではない。

「ちょっとずつ相手の事を知っていく」プロセスは多くの人にとってあくまで「欲望の枠」に収まっている者同士の関係に対するスパイスのようなものに過ぎないのだと思う。

日常の範囲からかけ離れた感性をずっと相手にして、一歩ずつ止まりながら進むジェットコースターのようなコミュニケーションを続けたいと思う人間は少ない。(全くいない訳ではない、念のため)

そして、「異常」側に振り分けられた人間もまた、マジョリティの「行動」と「欲望」の紐付けパターンを暗記して、それを組み合わせる遊びを延々続けるのを苦痛に感じるだろう。

特に「推し」の話題は勢いが重視されがちな傾向にあり、なおさらこうしたブレーキとなる要素は忌避されるものだ。


②どうやって抜け出したか

「オタ友」をやめて楽になった

とはいえ、Dとオタク話ができなかったところで、大したダメージじゃない。Dとは元々同じ学校の、同じコースの出身という共通点で仲良くなったのだから。「オタク」としての熱量以外にも私たちを繋ぐものがある。
二次元コンテンツの話題はコミュニケーションの一環ってだけ。
苦しくなりすぎる前に、他の話題に移ろう。

高校を卒業し、大学に入ったあたりからいわゆる「オタ友」が増えなくなった。(ここでは「『推し』やコンテンツが好き」という共通項で繋がった友人を「オタ友」と呼んでいる)
できるのは取っている授業、専攻、サークルなど客観的な共通項をきっかけとした友人たちだった。


そしてそのような「普通の友人」との雑談のタネとして二次元の話題に花を咲かせる経験を積むうちに、かつてこの世で最大の娯楽だと感じていた「オタ友との二次元トーク」が自分にとっていかに逃げ場が無く、窮屈な側面を持っていたかに気づいた。

「『推し』が好き」という実体のない共通項でつながった友人は「推し」へのスタンスそのものが自分たちが友人である根拠であるため、どうしてもその部分での同調が求められる。必然的に、自分のようなマイノリティ側が我慢して相手に合わせる形となる。

一方で、「オタク」以外に共通点がある友人となら、その部分でわかり合えずとも友情が消えることは無いため、比較的自分の意見を言いやすいし、上の例のように二次元以外の話題に逃げることもできる。

もし、この記事を読んでくれている人で、同じように「推し」界隈内での居場所の無さと、それでも自分の「好き」を共有したい衝動の板挟みに苦しんでいる人がいたら、まずは「オタ友」ではない友達を作ることをおすすめしたい。意外と「オタク」以外との「推し」の話は楽しい。

自問自答しなくて良くなった


最近は二次元のオタクというよりアイドルのオタクをしている。
新しいジャンルだけど、そこで新たにSNS等を活用して他のファンと「つながる」ことはしなかった。そんなことしたらまたグループから浮いて苦しくなるだけだ。
「推し」の話は他人に「趣味は?」って聞かれた時にちらっと話すか、
「壁打ち」としてネットの海に放流するだけでいい。
それにアイドルオタクならファンクラブに入ることで
「自分はファンなんだ」という保証を得ることができる。
年に5000円くらい払うだけで、チケットの優遇等に加えて、オタクとしての安心感がもらえる。
相変わらず、CDについてくるランダムトレカで「推し」のバージョンが欲しいとも特に思わないから、「オタ活」的にもファンクラブから得られる
恩恵だけで特に困ったことは無い。
年に数回「推し」とライブで会って、出演しているテレビやラジオを気が向いたらチェックして、新曲が出たら鬼リピして、壁打ちアカウントに考察を投げて、その繰り返しが今の私の「推し活」である。
「私が何オタクに分類されるのか?」なんてもう考える必要が無い。私は会費を払って公式(FC)に認められたファンなんだし、私の行動にケチをつける他人はもういないから。
相変わらず、私と全く同じようなオタクはリアルにもネット上にも見つからないけど、特に何も感じない。

「オタ友」をやめてオタクコミュニティから脱し、「ソロ活」だけをするようになってから、これまで述べてきたような悩みから一気に自由になった。

そして
「自分が何オタクか」と考えたり、
自分の感覚は異常なんじゃないかと疑い、
周囲の人間を観察して「普通の感覚」を掴もうとし、
その「普通」に自分をすり合わせようとして、
それができないことに苦しむ
時間がゼロになり、ほぼ内省やメタ認知をせずに「オタ活」ができるようになった。




「でもそれって要は『自分は何者か』に答えるのを諦めて、オタクコミュニティからも敗走しただけでしょ」

こう感じる人もいるだろう。確かに私の今の行動は一見、思考停止に見えるかもしれない。  
「自分は何者か」という、深遠な問いを自らに課す戦いを諦めることで、一定の安定を得たのだと。

しかし、そうでは無い。むしろ、「自分の欲求を言葉では無く行動によって実現する事で、世界に対抗できるようになった」と言うべきなのだ。それを後編で掘り下げる。
(後編に続く)


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