が半端ない、という記事です。
主にコミュニティの中での「アイデンティティ」証明、「キャラ」の確立に失敗した人間の生きづらさとそこからの脱却について語っており、若干のタイトル詐欺感が否めませんが、少しでも検索に引っかかりやすく、今まさに「オタクなのに推しのグッズに興味が持てない」ことで苦しんでいる人に届きやすくするための題名です。ご了承ください。
※この記事ではオタク、という言葉を主に二次元のオタクの意で用いています。また、カップリング文化にも少し否定的ととれる表現があるため、不快に思われましたらすみません。
※地味にデスノートのネタバレ要素があります。気をつけてください
導入
急に小説始めんな!というツッコミはさておき、こんな経験をした方はそれなりにいるのではないか。
私がここで主張したい事を、特定の用語をこねくり回して多くの人に共感してもらうのは難しいと思う。なので、本記事では具体的なシチュエーションを示すことで「グッズ欲しく無いオタク」に見える世界を表現していく。
ここまで読んだ方で、この記事のタイトルに共感する方は、引用形式で示されるこれらのシチュエーションは飛ばし、その下にある本文を読んでいただいても理解に問題はないと思う。逆に、タイトルにしっくりこない方は読んでいただいた方が、記事の趣旨を掴みやすいと推測される。
①苦しかった日々
グッズが欲しい、という欲望を理解できない
ネットで「オタク グッズ買わない」「オタク グッズ欲しくない」などのワードで検索をかけると、「グッズを買わないオタク」の言い分が出てくる。
なるべくお金を使いたくない
オタクグッズは大抵ダサくて安っぽいから欲しくない
「買わされてる」感が嫌だ
どれも最もな意見だし、そのような感性自体は否定できない。マジョリティである「グッズを買うオタク」の前で口に出す事は憚られるだけで。
実際、「グッズを買うオタク」の中にもこうした感情に覚えがある人はそれなりにいると思うし、それだけこれらの意見には説得力がある。
それでも、「グッズを買わないオタク」の世界観がこの三つの意見に完全に集約されているかと言うと、どうも腑に落ちない。先程の主張は多くの場合、下のように言い換えが可能だ。
コンテンツ自体にはお金を落とすがグッズにはお金を払いたくない
他人から見えないようにしまっておく事もできるけど、ダサいグッズを買いたくない
コンテンツそのものや、その派生イベントに対して自分が消費者である事に抵抗感は無いが、グッズの消費者になりたくない
何かしらの商業化されたコンテンツのファンである限り、避けられない金銭の支払いは存在するだろうし、グッズは必ずしも自分が「〇〇のオタク」「○○推し」であることを他者に表現するためだけの道具ではない。
私は上の主張に潜む矛盾を弾劾したい訳ではない。ただ、先程の三つの主張はそれ自体がグッズを買いたくないと思う「理由」ではなく、むしろ「グッズが欲しくない」という感情が探し出した、二次的な「釈明」なのではないかと推察している。
自分の場合、グッズが欲しく無いという感情を突き詰めたところにあったのは「要らない物を無理に買うのが嫌だ」という感覚だった。
しかしこの感覚も結局は
「グッズが欲しくないからグッズが欲しくない」
というトートロジー、進次郎構文であり、自分が何故
グッズを要らない、グッズを買いたくないのかは今も分からない。
それでも一つ気づいたことがある。自分には「グッズなんて買ってたまるか!」的な、グッズ消費に対する明確な敵意は無い。
ただ、「グッズが欲しい」という感覚が無いのだ。別にグッズを絶対に買わない訳ではない。実用性が高かったり、デザインが優れていたり、グッズ化自体が珍しいキャラのグッズ等を買う事はある。
でも、好きなコンテンツのグッズを見て無条件に欲しいとは思わない。
マイノリティだけが自らの証明を迫られる
これはオタ活、もとい推し活に限った話ではないが、コミュニティ内の最低限の規範に添えない人間は、どうしても「浮く」し、それを埋め合わせるだけのものがなければ、集団の一員としての地位を確立するのは難しい。
私個人は特に絵が上手い、みたいなスキルがあった訳でもなく、またカップリング文化にも馴染めなかったため(この点はまた別の記事にしたい)、「グッズを買わない」という異常性を乗り越えて周囲にオタクと認識されるのは相当厳しかった。
これを読んでくれている方も、「それもうオタクじゃないやん」と感じたかもしれない。
それでも私は自分自身をオタクだと思っているし、それを他人に否定されたくない。
私って何?
自分に似たタイプの「オタク」がリアルにもネットにも見つからず、絶望する夜が何度も繰り返されたし、当時は一生このループから逃れられない気がした。
こうして鬱々としていた時間は、純粋にコンテンツを楽しんでいた時間と同じくらい長いか、それ以上だったとすら思う。
圧倒的に話が通じない
「界隈」のルールに従って行動できない人間がその成員として承認される難しさについては上で述べた。
そしてこの世には振る舞いだけでなく、感情の面でも、多くの人間が自然に自らを当て嵌められる欲望のフレームが存在する。
そして、その枠からはみ出た欲望は「変態趣味」「異常性癖」として
無いもの、
理解しなくていいもの、
軽んじていいものとして扱われる。
逆に枠の中の欲望を抱けない人間は、たとえ誰にも迷惑をかけていなくても即座に「異常者」のレッテルを貼られ、コミュニケーションが不可能な「触れてはいけない人」として周縁化される。
私は「グッズを買わない」という行動面だけでなく、「グッズが欲しく無い」(+CPを推せない)意味で感情としても、「輪」を形成する「枠」に適合できなかった。
自分にとっての「普通」は他の多くのオタクにとって普通じゃないため、会話のあらゆる部分で食い違いが発生する。
そして互いの行動が意味する感情を、一歩一歩確かめねばならなくなる。
こう書くと、「相互理解」といった感じである種のロマンの香りがするが、現実はそうではない。
「ちょっとずつ相手の事を知っていく」プロセスは多くの人にとってあくまで「欲望の枠」に収まっている者同士の関係に対するスパイスのようなものに過ぎないのだと思う。
日常の範囲からかけ離れた感性をずっと相手にして、一歩ずつ止まりながら進むジェットコースターのようなコミュニケーションを続けたいと思う人間は少ない。(全くいない訳ではない、念のため)
そして、「異常」側に振り分けられた人間もまた、マジョリティの「行動」と「欲望」の紐付けパターンを暗記して、それを組み合わせる遊びを延々続けるのを苦痛に感じるだろう。
特に「推し」の話題は勢いが重視されがちな傾向にあり、なおさらこうしたブレーキとなる要素は忌避されるものだ。
②どうやって抜け出したか
「オタ友」をやめて楽になった
高校を卒業し、大学に入ったあたりからいわゆる「オタ友」が増えなくなった。(ここでは「『推し』やコンテンツが好き」という共通項で繋がった友人を「オタ友」と呼んでいる)
できるのは取っている授業、専攻、サークルなど客観的な共通項をきっかけとした友人たちだった。
そしてそのような「普通の友人」との雑談のタネとして二次元の話題に花を咲かせる経験を積むうちに、かつてこの世で最大の娯楽だと感じていた「オタ友との二次元トーク」が自分にとっていかに逃げ場が無く、窮屈な側面を持っていたかに気づいた。
「『推し』が好き」という実体のない共通項でつながった友人は「推し」へのスタンスそのものが自分たちが友人である根拠であるため、どうしてもその部分での同調が求められる。必然的に、自分のようなマイノリティ側が我慢して相手に合わせる形となる。
一方で、「オタク」以外に共通点がある友人となら、その部分でわかり合えずとも友情が消えることは無いため、比較的自分の意見を言いやすいし、上の例のように二次元以外の話題に逃げることもできる。
もし、この記事を読んでくれている人で、同じように「推し」界隈内での居場所の無さと、それでも自分の「好き」を共有したい衝動の板挟みに苦しんでいる人がいたら、まずは「オタ友」ではない友達を作ることをおすすめしたい。意外と「オタク」以外との「推し」の話は楽しい。
自問自答しなくて良くなった
「オタ友」をやめてオタクコミュニティから脱し、「ソロ活」だけをするようになってから、これまで述べてきたような悩みから一気に自由になった。
そして
「自分が何オタクか」と考えたり、
自分の感覚は異常なんじゃないかと疑い、
周囲の人間を観察して「普通の感覚」を掴もうとし、
その「普通」に自分をすり合わせようとして、
それができないことに苦しむ
時間がゼロになり、ほぼ内省やメタ認知をせずに「オタ活」ができるようになった。
「でもそれって要は『自分は何者か』に答えるのを諦めて、オタクコミュニティからも敗走しただけでしょ」
こう感じる人もいるだろう。確かに私の今の行動は一見、思考停止に見えるかもしれない。
「自分は何者か」という、深遠な問いを自らに課す戦いを諦めることで、一定の安定を得たのだと。
しかし、そうでは無い。むしろ、「自分の欲求を言葉では無く行動によって実現する事で、世界に対抗できるようになった」と言うべきなのだ。それを後編で掘り下げる。
(後編に続く)