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たいていの人は私の「文脈」に興味がない (「手帳」と「考える私」(2018年2月9日(金)) )

昨日の午後は休暇をとり、「筋トレ」と「たんぱく質たっぷり」をたのしんで、完全にリフレッシュ。「ミスター不機嫌」のことなど完全に忘れ、ごきげんな1日を過ごしました。

今、移動の新幹線の車内にいるのですが、変わらず「ごきげん」が続いていて、昨日の午後の休暇を決断し、それを実行に移した、一昨日の自分に感謝しかないですし、

そもそも、ジムに行くことを決断した、数ヶ月前の自分にも感謝しかないですし、

何より、(私目線でいうなら)私をごきげんにしてくれるために、「筋トレ」や「食事」の知識を身につけ、笑顔でそれを伝えてくれるジムのトレーナーさんに対して、本当に感謝しかないのです。

ありがたい…。

世界というのは、特段、特定の個人を幸せにするために設計されているものではないように思います。

そういう中で、「不機嫌を撒き散らす」、「自分の哲学を押しつける」、「相手の文脈をおもんばかる国語力を発揮することなく、気にくわない単語に脊髄反射する」といった、「手っ取り早さ」で生き抜くやり方もあるのでしょうが、

それは世の中の設計のあり方にマッチしていないような気がします。

泣いてもわめいても、基本的には思い通りにならない世界の中で、「たのしい1日だったなぁ」と思って過ごすには、

(1)自分の文脈を他人が無条件で理解してくれるということは絶対にない、ということを前提にしつつ、

(2)自分の文脈に関心を寄せる方が現れた時に備え、これを日々更新・公開する場の活用はしておいて、

(3)無理のない(不快さゼロの)範囲内で相手の文脈をおもんばかり、それに沿ったかたちで、自分の「文脈」ではなく「持っている素材」を紹介する

というあり方でいるのがいいのかなと思っています。

#深く考える訓練 #生活習慣をちょっとだけ #楽しみ #ほぼ日手帳