健康は当たり前ではないのです!【MyStory1】
「お腹に力を入れて!」
「脚で立とうとしない!」
「私に寄りかかってる!その感覚を覚えて!」
矢継ぎ早に私から激が飛ぶ。
1ヶ月前、脳梗塞を発症し後遺症により、寝返りを打つことも、起き上がることも1人では出来ないその患者は、絶望の表情のを浮かべながら、しかし目の奥は一部の望みをかけリハビリに励む。
きっと、超エリートビジネスパーソンであったであろうその患者は、もう二度と脳梗塞前のようには仕事は出来ない。
隣で激を飛ばす私は、それでも、なんとしてもこの患者が自分で歩けるまでには持っていこうと、自分より大きな体格のその患者を全身を使って補助する。
どんなに、厳しいリハビリをしても、どこまで回復するかはわからない。
しかし、この病院の状況と家族から見捨てられたこの患者を考えると、自分で歩けるまでには持って行かないとならないと考えていた。
こんにちは。
矢間あやです。
今回から3回にわたり、私の「MyStory」をご紹介します。
今の活動のきっかけは?と聞かれても、「これ」と言うものがいつも見当たらなくいつも困っていました。
今回の「MyStory」は私の原点を探す旅になればいいな。と思っています。
私は、昔から自分のやりたい事をやってきていて、幸せなことに、女性が生きづらい世の中だとあまり感じたこともありませんでした。
最後までお付き合いください。
家族に捨てられる患者
理学療法とは病気、けが、高齢、障害などによって運動機能が低下した状態にある人々に対し、運動機能の維持・改善を目的に運動、温熱、電気、水、光線などの物理的手段を用いて行われる治療法です。
私は、妊娠をきっかけに動く楽しさを知り、海外のyogaに傾倒し、そこで理学療法士という職種を知り、日本で理学療法士になります。
出だしの脳梗塞の患者さんは、実は生活保護として私のいる病院に入院してきた患者さんでした。
沢山の患者と接していると、肩書ではなく、その人がどういう人物なのかわかるようになります。その患者さんも生活保護ではありましたが、多分、元超ビジネスエリートでバリバリ仕事をこなしていたのだとすぐにわかりました。
初めて、リハビリの担当になった私が、病室に挨拶に向かうと、ベッドの上で絶望の表情を浮かべて寝ていました。
後になって知るのですが、彼は脳梗塞を発症し、家族に捨てられたのです。
寝返りを打つことも、1人で起き上がることも、もちろん、ご飯を食べるのも、水を飲むのの、1人では何もできず、もちろんトイレにもいけません。
想像してみてください。
昨日まで自分では当たり前だと思って仕事をして、好きなものを食べたり飲んだり、スマートフォンでSNSをチェックしたり、彼女や彼氏、奥さんや子供に電話したり話をしたり、本を読んだりすることが全て出来なくなるという事を。
その患者は当たり前を全て奪われ、ただ、無機質な病院のベッドの上に横になって、家族に捨てられた事実だけを噛みしめている。
脳梗塞の後遺症で、体の半分が麻痺で動かず、顔も半面は麻痺のため、ロレツが回らず、自分の言いたい事も伝えられず、自分でやったらすぐ出来る事も看護婦に頼らなければならない状況で、忙しい看護婦はピンポイントでは来てくれず、そんな中でリハビリは始まりました。
まずは、ベッドの上で寝返りから。
私達は当たり前と思っている寝返りすら、脳梗塞の後遺症で始めは、麻痺の部分に力が入らず出来なかったのが、時間が経つにつれて、今度は麻痺の部分に力が入り過ぎてうまく出来なくなる。
たくさんの失敗をしながら、少しずつ出来ることが増えていき、患者さん自身が努力家でもあったので、あっという間に立つ訓練に突入しました。
この辺りになると、出会ったころの絶望の表情ではなく、私が病室にお伺いする時間にはやる気満タンでスタンバイ。
しかし、ある日突然看護師さんから、「明日、転院が決まったってよ〜」と聞かされます。
もう少しで歩く練習に入れると思っていたのに。。。。
それは患者さんも突然のことで、あっという間に転院していきました。
転院先がリハビリ病院ではなくどこかの施設と後に聞いて私はやりきれない思いでした。
なぜなら、施設にもリハビリがあるとは言え、あの患者を本気で歩かせる気持ちがある理学療法士がいるとは思えなかったからです。
なぜグラフィックデザイナーから理学療法士に??
私が理学療法士になったのは、Yogaに傾倒していたと言うことと、私生活での離婚がきっかでした。
私の育った家は、男は仕事して、女は結婚して子供を生んで育てるのが人としての幸せ。公務員が一番良い仕事だ。という家庭です。
母は、専業主婦で、3人の子供を育て、父は仕事一筋。
そんな家庭の長女として生まれた私は、親の期待を受けて、女の子だから、と小さい頃から、日本舞踊にピアノにお習字にお絵かきと沢山の習い事をさせてもらっていました。
子供の頃は活発で男の子を従えて遊んでいるような子供。
中学3年生の時に、女子校のお話の漫画にハマり、周囲に女子校は向いてない。と言われながら、県立の女子校に入学。
当然、周りのアドバイスは正しく、3日でこの世界は私には向いてないと悟り、高校3年間はチャイムが鳴ると現れて、チャイムと共に消えていくという学生でした。
高校生活も中盤に差し掛かると、進路を決めなければならなくなり、これと言ってやりたいこともなかった私は、美術の学校があると知ります。
美術大学への進学のために、美術の予備校に通うようになると、そこが私の居場所となり、のめり込んでいきます。
学生時代、アルバイトとしてデザイン事務所で働きはじめます。私がデザインをはじめた頃は、丁度インターネットが出始めたころで、デザインも手作業からパソコンに移行しようとしていた時期でした。
そこで、旦那になる相手と知り合います。
結婚した私は、めでたく子供を授かるのですが、若い頃、生理不順が続き、医者から「子供は無理です。」と言われていました。
あまり、深刻に考えていなかったのが良かったのか、すっかり忘れていたのが良かったのかはわかりませんが子供を授かります。
妊娠5ヶ月目の検診の時、体重が2㌔増え、主治医に母子手帳に赤丸をされ、産院にあるマタニティービクスをすすめられます。
初めての妊娠。
体重が2㌔増えただけでなぜ赤丸されるのか?私はそんなにダメな事をしたのか??と不安になったのを覚えています。
運動と言ったら中学時代のバスケットボール(しかもイヤイヤ入部)くらい。運動は好きな方ではありません。
マタニティーエアロビクスだから、そんなにキツくないだろうと思っていた私は、飛んだり、跳ねたり、走ったりする、普通の初級エアロビクスレベルの強度に初めは15分しか記憶ないほど。
今もどうやって帰ったのか?「記憶にございません」状態。
周りには「明日出産予定日なの〜」と大きなお腹を抱えた先輩ママやマタニティービクスの先生も2児の母で同産院で出産経験をされている方。病院の内緒話やなぜ太ってはいけないのか、出産のあれこれをおもしろおかしくクラス前後にお話くださり、その面白さにすっかりマタニティービクスに通うことが生活の一部になりました。
産後も1年間、同院でアフターエアロビクスに参加。
妊娠前は、すぐ具合が悪くなっていましたが、産後はあまり不調を感じなくまっていました。
エアロビクスは私の生活の一部にり、怪我をしたらエアロビクスが続けられなくなるなぁ〜とストレッチや人体についてを独学をはじめます。その時、たまたま、海外のYogaのワークショップに参加したのが、私がYogaにハマっていく第一歩でした。
私が傾倒したYogaは、アイアンガーYogaをベースにタントラ哲学を融合した非常に新しい流派で、ドクターをはじめ海外の理学療法士や整体師、カイロプラクティックなどの体のプロの方々が多く指導・在籍していました。
当然、体の知識は必須で、英語もままならない素人の私は、先生方の発音を聞き取りながら辞書を片手に必死で猛勉強しました。(若い頃それくらい勉強すればいいのにとみんなに言われる程)
動きの中での治療の仕方(痛みを緩和したり、予防する)もこの時たくさん学びました。また、他の流派のYogaも積極的に学んでいました。
ちょうどその頃、私生活では離婚を経験します。
その時、家庭自立支援給付金事業という制度を知り、そこに理学療法士も含まれていたのです。
Yogaのコミュニティーにはたくさんの海外の理学療法士の先生がいたので、「なーんだセバスチャン(仮名)も出来るなら私にも出来るのでは?」と、理学療法士になりました。(そんなに甘くはありませんでした)
理学療法士の勉強で一番楽しかったのは、解剖学や運動学という基礎医学。
実習先の理学療法士の先生に「Howtoは学ばなくて良い。その代わり解剖学、生理学、運動学をしっかり理解すること」と指導を受けたのが、臨床で一番役に立ちました。
理学療法士にはなったものの。。。。
晴れて国家資格保有者として病院に勤務するのですが、実は、理学療法士の学生の時から、私は理学療法士の世界に向いてないと感じはじめていました。
私の最大のミスは、日本の理学療法士は「医師の指示のもと」仕事をする。
ということを、入学してから知ったことでした。
私が知る海外の理学療法士は治療も診断も行います。
それは病院という閉ざされた空間しか知らない理学療法士が多い中、やりたい放題の人生を歩んでいる私には、意味のわからない暗黙のルールが多すぎるからです。
実習先で、
「患者に笑顔を見せるな!」と怒る理学療法士、
「このやり方しか認めない!」と強要する理学療法士。
実習先は、病院以外に、施設にも行き、施設の現状も目の当たりにしました。その施設のリハビリはマッサージでした。
就職活動では
業務は9時ー18時で終わるけど、理学療法士同士のコミュニケーションをとるため、朝は6時に夜は10時位まで帰れないけれどそれでも良い?と
本気で聞かれるリハビリ室もあり、今までとは随分畑の違う所に来たなぁ〜と思っていました。
なので、私は、リハビリ室に理学療法士が0人か、いても1人の所、そして、病院と決めて就職活動をしました。
もう、その頃は、気分は一般の仕事をする人と同じで、特に仕事のやりがいや情熱よりも、子供を抱えたシングルマザーが仕事を探さないと。という気持ちでした。
幸い、私は、理学療法士になる前に散々海外の理学療法士をはじめ、Drやセラピストに指導を受けていたので、技術面では、全くの新人よりは落ち着いていました。
そうして、初めての入職した病院は、とんでもなくブラックで、とんでもなく面白い人達が集うリハビリ室だったのでした。
⇒【MyStory2】に続く。
2020年3月に発売しました。
この本をきっかけに新しい人生を歩みはじめました。
私のメソッドを使って、元気な人を増やす仲間を作っていきたいと思っています。
ねむりで人生を変えるプロジェクト・眠りの学校
https://yazama-aya.com/nemuri-school
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