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○○な人は△△ということ|「ということ。」第16回

 って、なんぞや。そう思ったひともきっといるはず。(未熟なタイトルで申し訳ない……)

 ちょっとね、最近、思うことがあって。「デキるひとは聞き上手」とか「かわいい子は腹黒い」とか、そういうのの話をしたい。

 「○○な人は△△」な記事って、私もつい読んじゃうけど、冷静になるとちょっとひくことも多々。「(データがあるならまだしも)なんの根拠があって、そんなことを堂々といえるの?」と。

 でも、読んじゃう。「あ、私これだ!」ってクスッとくるときもあるし、「あの人、確かにそんなとこあるわ〜」って改めてうんざりするときもある。

 話はちょっと脱線するけど、仮にも編集者として思うのは「読者に何も与えない記事は読んでもらえない」ということだ。情報にせよ、エンターテイメントにせよ、記事には価値が必要。

 と、なると。「○○な人は△△」な記事が、読者に提供しているものってなんだろう。「○○な人は△△」という情報? いや、私はそうは思わない。誰だって、正しい情報がほしいはずだから。根拠もない情報は、情報じゃあない。

 じゃあ、何? っていうと。結論からいえば「○○な人は△△」な記事が読者に与えているのは「残念な安心感」なのかな、と思い至った。

 アイデンティティ。聞いたことがないひとはいないだろう。自我同一性のことで、『大辞林』にはこうある。(②の意味)

どう いつせい [0] 【同一性】 〔identity〕
〘哲〙 あるものが時間・空間を異にしても同じであり続け,変化がみられないこと。
①物がそれ自身に対し同じであって,一個の物として存在すること。自己同一性。
②人間学・心理学で,人が時や場面を越えて一個の人格として存在し,自己を自己として確信する自我の統一をもっていること。自我同一性。主体性。

 “自己を自己として確信する自我の統一”。
 難しい言葉で説明されると「はいっ?」って感じだけど、要は「自分が自分らしくあること」といったところか。

 ……うわぁ。「まあ、由々しき事態!」なんて大げささは似合わないので、やめておくけど。正直、「ちょっと危ういかも」と思った。

 なぜかって、つまり私たちは「○○な人は△△」な記事によってアイデンティティのレプリカを持ち、それに満足しかけている……ともいえるから。

 怖くない? 自分の行動や考えを、他人が用意した枠にはめて、うっかり満足しているその状態。そのうち、用意された枠に“合わせて”自分のそれが変わっていくかもしれない。なーにが自分らしく、だ。

 逆に、「○○な人は△△」な記事がどうしても流行っちゃうのは、やっぱり、楽しくて心地いいからなんだ。あいにくね。

 自分をカテゴライズして、自分の輪郭を他人に委ねて、あるいは他人をこうだとカテゴライズすることで、なにより自分が安心。これが「残念な安心感」。分かる、楽しいよ。楽しいし楽だけど、ちょっとさあ、なんかさあ。

 ズルくないか、それ。



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