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書きたいということ|「ということ。」第5回

私は、これでも一応、小説や詩を書いて生きたいと思っている。

けれど。書きたい話のストックも、日記としてのこしたい暮らしも、思い浮かんだ素敵な言葉も、あるにはあるのに、スマートフォンのメモ帳にしまっておくこともある。


私は、文章が好きだ。日本語が好きだ。

こんなにたおやかでしたたかな言語は、世界の何処を探したってきっとない。愛してやまない、言葉。だから就職活動の頃にも、出版や広告といった、言葉のずっと近くに居られる業界にしか興味がなかった。今も、変わらないたった一つの私の選択基準。

そういえば、大学の卒業論文では、期日ギリギリまでプロットを練っていたので、3万字をたった3日で書く羽目になった。けれど、これはまったく苦ではなかった。むしろ、幸福な3日間だった。誰とも話さず、誰の声も聞かず、自分の中に出てくる言葉とだけ対峙する、孤独で緻密な時間。

今の仕事でも、ディレクション業務の一部として原稿をチェックするときがある。私はこの時間がいっとう好きだ。一つひとつの文字との対話。その文字たちが集団になって訴えてくるメッセージ。そういったものものを作り、触れるのが私が選んだ仕事だ。


さて、私がなぜ書きたいことをメモ帳に溜めたまま書かないのか。

それは、そんな気分だからだ。別に、難しいことやていねいに書きたいもの、に限らない。どんなことも「書きたい」と思った瞬間にしか書かない。ここでいう「書きたい」は、「書いて見せたい」という意味だ。メモ帳に溜まっていくネタたちは、「書こう」で止まって、「書きたい」にすらまだ届いていない言葉たちなのだ。まだ、時期じゃない。

1年前までは、「書かなきゃ」だった。ちょうど体を壊して収入の安定しない頃で、毎日、なにしらか生産的なことをしなければと焦っていた。「書かなきゃ」はちょっと苦しい。私は、大好きな日本語で苦しむのは嫌だな、と思った。それが最近のことで。


「〇〇しなきゃ」ってのは不自由だと。知っていたはずなんだけど、きっと自分でも気づかないうちに慣れてしまっていたんだ。大人になるにつれて、「しなきゃ」に慣れて、「しなきゃ」をできるようになってしまう。私は自由になりたくて文章を書くのに、好きだから書くのに。

だから、自分にルールを課して縛るのはやめた。本当の意味で自由に、思いのままに、欲望のままに。

「書きたい」ときにだけ書ける言葉のために。

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