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「それが何になるの?」と思ったそばから何をするのも嫌になる

私にとって生きることは、迫りくる虚無感との戦いでもある。

どんなことも予測がつくようになってしまうとつまらない。そう感じるのは私だけだろうか?

「遊びに行く、それが何になるのか?」、「これを食べて、それが何になるのか?」、「仕事で認められる、それが何になるのか?」。

予測可能な結果に対し、疑問を投げかけずにはいられない。家事、通勤、ルーティンワーク...これら必要な作業は、新鮮味を見出すことが難しい。

以前居た会社で社長賞をいただいて、表彰されたことがあった。数百人を前にスピーチして、拍手を貰う。パーティーで他の社員と話していると、嫉妬めいたコメントをしてくる人もいれば、素直に祝ってくれる人もいた。

こういう経験はそこそこ楽しかったが、正直、こんなもんかと思った。評価され認められるということは、大小あってもこの程度の喜びしか私にもたらさない。規模が上がって何千人に祝われようと、何万人に祝われようと、特段私に喜びをもたらさないだろう。

仕事で頼りにされるようになって、優秀だと褒められたり、後輩が「YeKuさんみたいになりたいです」と言ってくれる。それは嬉しい経験だったけれども、躍起になって追い求めるほどの嬉しさではない。いまや褒めてくれる人には悪いが、「またか」という感想を抱いている。

美味しいものを食べること。食の快楽は一時的で長続きしない。高級レストランでコース料理を食べれば美味しいと感じるが、二回目はもう食べる気がしない。同じ刺激だともう興ざめして、食べる気になれない。

そんな私はご飯派かパン派かも定まっていなかったりする。飽きていないもの派としか言いようがない。

しかしながら、完全に予測がつかないこと、ある程度予測可であってもその中に「まぶしい何か」があるかもしれないという期待が持てることには、心が躍るし、取り組んでみたいと思う。それは子どもが夜空を見上げて流れ星を探すような、純粋な好奇心に近い。

本当は、平凡な繰り返しにも喜びを見出せるほうが良い。マインドフルネスは平凡な日常にも新しい発見を見出せる可能性を教えてくれる。確かに同じ日はない。しかし、それを実感するには、意識の転換が必要だ。

通勤路を変えてみる、家事をしながら新しい音楽を聴く…そうした小さな変化の中に、新たな発見がある。頭では理解していても、それを感じるのは容易ではない。

予測可能な日常とどう向き合うか。それは、「まぶしい何か」を自ら創り出すことにあるかもしれない。

プログラミングにおいては、定められたルールの中で創造を楽しむことができる。日常も、そんなコーディングのように捉え直すことはできないだろうか。

繰り返される日々の中で、小さな変化を加え、予測不可能な要素を見出す試み。日常に冒険を取り入れ、予測図を描きつつもその隙間に新しい何かを見つけ出す。猫がじゃれるように、そんな生き方を目指している。

今日もキーボードに向かいながら、「まぶしい何か」を探し続ける。それが私の日常の一部であり、これからも変わらない探求だ。


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