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愛を届けたい

連絡が来る瞬間が幸せの絶頂で、
返信をしてしまうと終わってしまう気がして
返信を先延ばしにすることがある。
LINEだと、既読にならないようそっと閉じる。

うん、すぐ返さなくてごめんなさい。
でもね、
連絡が来たと知った時に、その事実そのものの幸福感を味わって、どんな知らせかなってその人との過去から最近までのやり取りを思い返して、さぁなんだろうって開くから、って伝えたら許してくれるかなって。

それくらい、誰かがその時間自分を思って、自分だけに向けた言葉や写真を送ってくれるって、すごく、すごーく、スペシャルなことで。それが自分の好きなひとたちであれば、なおさらだ。


忘れもしない。
中学2年生の頃に初めてガラケーを買ってもらって、夜ご飯を食べた後自分の部屋にこもって、友達に言われるがまま、昼間まともに話したことのないクラスメイトの男の子にメールをした時の、さて何を話したらいいんだか必死に頭を捻った記憶。一通のテンポはゆっくりで。一回一回返事が返ってくる事実がたまらなかった。胸の高なり。気づいたら飛ぶように時間が過ぎていた。

あの頃は、友達の間で手紙交換も流行った時期だった。休み時間や放課後、ルーズリーフにお気に入りのカラーボールペンやポスカを使って、好きなあの子とのメールの内容や、クラスメイトの恋愛模様、先生の噂話など。
決まり文句は「誰にも言わないでね」。(笑)
連日やり取りしても不思議と話題は尽きなかった。

荒削りで、危なっかしくて、善悪の境界線さえファジーだったあの頃は、毎日のテキストコミュニケーションに真剣だったなと思う。
あれだけ一人ひとりに時間をかけて、丁寧に言葉を綴ることは、いつのまにかわたしの日常から抜け落ちていった。

SNSで不特定多数の”知り合い”にフィルターをかけた自分を発信することに慣れてしまうと、一人に向き合った時にも上部のテキストコミュニケーションしかできていない自分がいて、(相手はどう感じているか分からないが少なくとも自分はそう感じて、) それが好きなひとたちであればあるほどそこに罪悪感が残る。

しまいに、
あ、話したいと思うことは毎日次から次に浮かぶにもかかわらず、上部のコミュニケーションになるくらいなら、よっぽど今伝えるべきこと以外はまぁ次会う時に話そうと、頭の中のガラスの入れ物にいれる。
その入れ物は下半分の欠けた砂時計のような形をしていて、時が経つと話そうと思っていたことはさーっと何処かへ消える。そうして話さなかったことがどれだけ多いことか…!

ひとは永遠ではない。
だから、そうして話さない間に、
相手が旅立ってしまうことも勿論ある。
それを知ったからこそ、形はどうでもいい、
その時その時に伝えないといけないし
伝える努力をしたい。

愛を届けたい。

わたしの親や祖父母や叔母は、愛を届けるのがほんとうに上手だ。夜疲れたなぁとスマホを見た時に体調を気遣うLINEをくれたり、急激な暑さにものを食す意欲が失せた頃、何も言わず色んな種類の果物の缶詰を送ってくれたり。毎年届くクリスマスカードの丸みを帯びた字体から、温もりが身体に伝わる。

わたしだって…、
わたしだって、
連絡が来ることのスペシャルさに幸せをたくさん感じることができるのだから、その幸せに勇気を加えて、時間をかけて、愛の伝わるテキストコミュニケーションを取り戻せるはずだ。
親とも彼とも友人たちとも、皆と離れて暮らす今だからこそ、何より大切にしたい。

#エッセイ #愛
#テキストコミュニケーション




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