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論語とプロダクトマネジメント

こんにちは。榎本です。
最近は語るよりも自らの行いが大事だな~という感じでnoteモチベーションがあまり湧いてなかったのですが、プロダクトマネジメントについて話す機会ができたので、最近興味を持っている論語とあわせて考えをまとめていければと思います。

論語に対する誤解と論語の中心概念

IT業界で最近出てきているプロダクトマネジメントと、なんか2500年前に書かれた論語にどんな接点があるのか?そんな風に思う方が多いのではないでしょうか?

僕自身、論語のイメージは国語の漢文でやった説教臭い話だな~と思ってたのですが、マインドフルネスやリーダーシップなどの文脈で論語を読んでいくと、実際はそんな表面的で教義的な本ではないんじゃないか?と思ったんです。

僕が思う論語の中心概念は「義」「仁」です。
次のように定義します。(五常という徳の5項目に入っている2つになります。四徳の4項目の中の2つでもあります。)

「義」:なすべきこと、使命(ミッション・パーパス)
「仁」:常に自分が学習できる状態を保つこと(学習する組織の「学習」)

これらについても説明は次に話します。

「義」=ミッション・パーパス・プロダクトコンセプト

まずは「義」から。

「子曰、君子喩於義、小人喩於利」
:子曰く、君子は義にさとり、小人は利にさとる

先生が言われた。「りっぱな人間は義務にめざめる。つまらぬ人間は利益に目がくらむ」
※義は人間のしたがうべきもの、正しい道理、筋道。

「論語」里仁編16(貝塚茂樹 中公文庫)

論語の中で君子=君子たる人・人の上に立つ人、小人=小さき人みたいな単純な比較構造でよく出てきます。
ここで言われているのは、「義」は、「利」=自分の損得勘定ではなく、自分のなすべきことや使命のこと、ということです。

そして「義」から始めるというのは、プロダクトマネジメントでいうところの企業の「ミッション(使命)」や「パーパス」を起点にするということに非常に近いと思っております。

例えば
「●●の業界が伸びているから、●●でいうところのAirbnb(Uber,Amazonなど)を作ってしまえば儲かりそう!」
であったり
「AIとかビッグデータ、DXがなんか話題になってるから、そんなプロダクトを作ろう!」
みたいな話ではないということです。

なぜなら人は利益が出ている会社のプロダクトがほしいと思うのではなく、課題を解決してくれるからほしいと思うのであり、顧客に売上目標を課すことはできないからです。

これについては次のnoteでもまとめております。

「仁」=学習する組織の「学習」

次は「仁」です。次のように話されています。

「子曰、君子而不仁者有矣夫。未有小人而仁者也。」
:子曰わく、君子にして不仁なる者有らんか。未だ小人にして仁なる者有らざるなり。

先生がいわれた。「君子でありながら仁徳に欠けているものもあることはあるだろうよ。しかし小人でありながら仁徳を備えた物があったためしはない」

「論語」憲問編7(貝塚茂樹 中公文庫)

この仁徳をいかに解釈すべきか、ですがそれは次の「仁」がでてこない文から見ていくのが良いと思っております。

子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。
:子曰く、学びて時に之を習う、また説ばしからずや。朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。人知らずして慍みず、また君子ならずや。

先生がいわれた。「ものを教わる。そしてあとから練習する。なんと楽しいことではないかね。友だちが、遠くからそろって来てくれる。なんとうれしいことではないかね。他人が認めないでも気にかけない。なんとおくゆかしい人柄ではないかね」

「論語」学而編1(貝塚茂樹 中公文庫)

これは読んでみてもよくわからないというか、友だちの話などが突然出てきてよくわかりませんが、僕のマインドフルネスの経験から身体性として頭でわかるのではなく、身体で身につけることに近いのではないかな?と思っております。(下記参考note)

先生がいわれた。「何かを学んで、それが自分のものとして身体化される。楽しいことではないか。例えば、古い友人が訪ねてきてくれたようなそんな感覚。もし本当に身体化されていたら、この感覚が他の人が理解できなくても気にかけない。なんとも奥ゆかしいことではないか。」

自分の頭で知っているだけではなく、それが身体化された時こそが良いことである。ただ、頭で知っているだけの時は相手ができていないことを教義的になってジャッジしたくなりますが、本当に身体化されていたらそんなジャッジする心もなくなるということではないかと。

このように「学習する組織」のような学習する精神を持つことが「仁」なのではないかと思います。この「仁」についてはわかりづらいので、このフィードバックを受け入れる学習体制については次に分けて話したいと思います。(このnoteにも似たような概念をまとめております)

「学習」のための「知ること」と「改めること」

「仁」についてはいろいろ奥深く難しいので2つに分けて話していきたいと思います。1つは学習する組織のフィードバックを受け入れるために「知る(自分自身を)」ということ。もう1つは「改める」ということです。

まずは「知る」ことです。知るということで大事なのはソクラテスの次の一文でしょう。

「汝自身を知れ」

ソクラテス

孔子も次のように話しております。

子曰、不患人之不己知、患己不知人也。
:子曰く、人の己を知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患うるなり。

先生がいわれた。「他人が自分を認めないのは問題でない。自分が他人を認めないほうが問題だ」
「論語」学而編16(貝塚茂樹 中公文庫)

自分が他人を認めるためには、自分が自分自身のことを認める必要があり、そのためには自分のことをまずは知る必要があります。(ひいてはまず知れていないという自分を知ること)

「知る」ということについては、次の論語があります。

子曰、由誨汝知之乎、知之為知之、不知為不知、是知也
:子曰く、由や、汝に知ることを誨(おし)えん乎、之れを知るを知ると為し、知らざるを知らずと為す、是れ知る也

先生がいわれた。「子路よ、おまえに知るとは何かを教えてやろう。自分の知っていることは、他人に知っているといってもかまわない。自分の知らないことは、他人に知らないと答えなければならない。これがほんとうの知るということなのだ」

「論語」為政編17(貝塚茂樹 中公文庫)

「知る」というのは、自分が知っていることを「知る」こととして、知らないことを「知らないこと」とすること。
これは学習する組織において、そもそも知らないということすら知らないと、知ろうとせず学習する姿勢になりません。まずは知っていることと知らないことを分けて、知らないことをフィードバックを受けて知ることが大事ということです。

プロダクトマネジメントでいえば、アジャイルやリーンスタートアップの思想にもあるフィードバックをもとに自らを改善していく姿勢にも読み取れると思います。
そしてその循環こそがアジャイルやリーンスタートアップであり、スクラムをなぞることやリーンスタートアップのやり方をただなぞることは全くその精神を理解してないと言わざる得ないです。

これは循環や流れというシステムが大事であり、静的なデータ分析や一方的な顧客調査ではないことがわかります。
「義」の心でプロダクトの仮説を打ち立てても、顧客の課題についての理解がスタートになりますし、ソリューションが正しいかはわかりません
顧客の意見をただ聞いたり、一方的なデータを分析する一方通行なコミュニケーションではなく、双方向に自分の「義」をもとに知っていることと知らないことを分けて、知るということが大事。

子貢曰、我不欲人之加諸我也、吾亦欲無加諸人、子曰、賜也、非爾所及也。
:子貢(しこう)が曰わく、我人の諸(こ)れを我に加えんことを欲せざるは、吾亦(また)諸れを人に加うること無からんと欲す。子曰わく、賜(し)や、爾(なんじ)の及ぶ所に非ざるなり。

子貢がいった。「わたくしは、他人が私にしかけてほしくないことは、自分も他人にしかけることがないようにしたい。」先生がこのことばをきいていわれた。「子貢よ、それはおまえにできることではないぞ」
「論語」公冶長編12(貝塚茂樹 中公文庫)

そもそも自分について知らないのに相手を聞くのでは、相手に迎合するだけ。これがよくあるプロダクトのマーケティングではないでしょうか。
そしてこの論語でもあるように「他人がどう思っているか、というのは原理的に自分は知る由もないこと」。これは「自分自身を知るのではなく、知ろうとせずに相手に操られてしまうこと」に他ならないと思います。
つまりそもそも相手を知る前に自分自身のことを知らないということを知ること(本当の意味での「知る」こと)が真に始めるべきことなんです。自分の成し遂げたい「義」のミッションやコンセプトを知らないまま始めて、顧客や市場のデータだけを集めてもプロダクトはうまくいくはずがありません。

これは顧客調査のよくある間違いの例で出てくるお皿の事例にも近いです。

次に「改める」ことです。「知る」についてわかれば「改める」ことはそこまで難しくないかと思います。

子曰、過而不改、是謂過矣。
:過(あやま)ちを改(あらた)めざるこれを過(あやま)ちという

先生がいわれた。「過って改めないこと、これを過ちという」
「論語」衛霊公編30(貝塚茂樹 中公文庫)

すなわちそのようにして自分について知っていること・知らないことを分けて、知らないことを知るという循環を通して、過ちをしていたとわかったときにそれを改めることが学習であるということです。
それを改めないこと=真の過ち=学習ではない仁ではない。

プロダクトで問題が起きた時に、それに対処に終止してそういったことが起きないようにとしますが、そうではなくそれは自分について改めるメッセージであると捉えることが学習の姿勢。そのためには過去の自分を否定するという「勇気」が求められるかと思います。

プロダクトマネジメントをめぐる現代の病

さてこうして考えていくと、プロダクトマネジメントは論語から非常に学べることが多いように思います。
それは論語の精神性からかけ離れている部分が多いからです。

「プロダクトマネージャーってなんか盛り上がってるし、市場価値が上がりそうだから、キャリアアップとしてプロダクトマネージャーになろう」

みたいな「利」の心が蝕んでいることも多いでしょう。

「ミッション」「パーパス」って流行ってるし、これを話せば上手くいくなら作っておけばいいや。別にこれは自分の信念じゃないけど。

のように表面をなぞるだけで、「利」だけで「知る」ことすらしてないことも多々あります。まさに「学而時習之」における学んだだけで頭で知った気になることです。

「バリュープロポジションとかカスタマージャーニーとかをまとめてきれいな図解を作ってそれっぽいことがしたい!」

と、フレームワークを使うのではなくフレームワークに使われることも多いのではないでしょうか?

「とにかく上手くいくか不安だから、データとか成功事例とか競合のことを徹底的にパクって、それをなぞればいいや」

という「知る」も「勇気」もない、人を機械のように見て学習とは無縁のスタンスを取る人もたくさんいます。

「なんか自分の意思決定が間違ってたみたいだけど、自分が間違ってたなんてプライドが許さない!この事例は例外だし、取るべき意見じゃない」

と本当の「過ち」を犯してしまうことも多いかと思います。

最後にもちろん僕も修行の身。論語の知恵を「学而時習之」として身体化させていくことがプロダクトマネジメントであり、それが「結果として」プロダクトを成長させて、「義」を成し遂げることになるのかと思います。

※残りの2つ(3つ)の徳は実際にチームで運営をしていくときに非常に大事になると思ってます。そちらについてはまた別の機会に話せればと思います。(礼・智・信)


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