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#28 弱さを見せる。vulnerableさを見せること

私が30歳手前の頃、ヨガの先生から、
"You should be more vulnerable."
と言われたことがあった。vulnerableは日本語では「脆弱さ」という言葉に当たるが、自分の弱いところ、見せたくないところのことを言う。「君は、もっと弱い部分を見せるべきだ」と言われたわけである。当時の私は、なぜそんなことを言われるのか、さっぱり理解できなかった。

その頃、私は今より完璧主義だったと思う。人にはNOと言えず、ちゃんとした人間であらねばいけないと思っていた。人の話を聴くことは苦手で、自分のことでいつも頭がいっぱいだったと思う。けれど、人のために何かをしないといけないと思っていた。
自分の弱い部分を見せるなんてとんでもなくて、そんなことをしたら恥ずかしいし、弱い部分を見せたら周りの人は去っていったり、私を嫌うだろうと思っていた。

弱い部分を初めて人に見せた、私の経験

当時、そのヨガの先生はアメリカ人で、私はヨガ通訳として講座に入っていた。ヨガの座学クラスは哲学的な内容も含み、具体的に考えるべく時々参加者にスポットライトが当たって、その人を深堀りするレクチャーになることがあった。あるとき、私にスポットライトが当たることがあったのだ。もう10年以上前のことだったので、内容の詳細は覚えていないのだが、私は先生に質問され、痛いところを突かれ、涙がこぼれた。今まで誰にも言えなかった本音がでて、嗚咽しながらようやく答えたと記憶している。

今思い返してみると、その頃の私は、ほとんどの部分を他人軸で生きていたのだ。なりたいと思う姿を自分の外側に見つけ、自分がそれになるべく努力していた。ずっとそうやって生きてきたので、私は私を生きていると思っていたし、本当の自分がどう感じるかなんて考えたこともなかった。先生から痛いところを突かれて、いわゆる模範解答が見つからず、汚くて誰にも見せてはいけない本音が出てしまい、なぜ涙が出るのか分からないまま泣いていた。

他人軸で生きる、つまり自分の評価基準が自分の外にある状態にあった私は、他人から承認されたいという思いが強かった。間違っていないことをしている安心感が欲しく、自分が物事を選ぶ基準が、いい/悪い・より良い/好ましくない、で決めていた。損得で考え、ほとんどすべてのことに対して、受け入れるのではなく「いい」「悪い」とジャッジしていた。
そしてそんなとき、何をしていても、高級レストランで美味しいものを食べても、何かをどんなに達成しても、いつもどこか渇望感と違和感があった。もともと欲張りな性格だが(今でもそうかも)、いつも「もっともっと」と思っていた。

ヨガの座学クラスで、私が泣いてしまったとき、絶対みんな引いてしまうと思っていた。けれど、結果は逆だった。場の雰囲気が変わり、他の参加者の方からも、ポツリポツリと本音が出てきたのだ。私が自己開示したことで、共鳴してくれた人がまた自分の話をしてくれた。

この経験は私にとって大きかった。弱みを見せたら嫌われる、と思っていたのに、弱いところを見せたら周りが受け止めてくれ、周りの人がオープンになっていったのである。もちろん、先生や主催者の方が、攻撃される心配のない安全な場づくりをおこなってくれていたり、悪意ではなく思いやりがある場だったことはある(敵対しうる立場の人がいたら、弱みをオープンになんてできないし、それはすべきではないだろう)。
周りの人の反応もさることながら、自分の中に、ある種の清々しさを感じたことも驚きだった。絶対見せてはいけないと思っていた自分の汚い部分を見せてしまったことで、怖いものがひとつ減った。そんな感じである。

そこから、少しずつ私は変わっていったように思う。
言いにくいこと、人にどう思われるか分からないこと。でも、自分が本当に感じたことを言う、やってみる。それを少しずつ実行し始めた。
はじめは、そんなことをやったことがなかったので、めちゃくちゃ自己中心的で、周りにも迷惑をかけたと思う。だんだんやっていくうちに、自分自身に対する理解が進んだり、押さえ込んでいた感情が出てきたりした。自分の未熟さに気づけたり、人から指摘されたときに悲しくなるのではなく受け取れることが増えた。

とはいえ、長年のクセは中々抜けない部分もあり、まだまだ人の意見に迎合しがちだったり、意見を求められてもすぐに自分の考えを言えなかったりする。

わざと自己開示するようにしてみた時期

人間というのは面白いもので、自分が表現しているのと似たような人が集まる。
これでいいのかなぁという気持ちで表現すれば、そんなのダメだよという意見を頂戴することがあったり。堂々としていると、ネガティブな反応があってもおかしくないときに、誰にも何も言われなかったりした。

私は、クローズドなSNSの場に、悩んだときに書き綴っていった。SNSでなくてもよかったと思うが、言語化することで、抱えている悩みや考えを客観視できるようになる。今思うと、SNSを選んで書いていた理由は、誰かに読んでほしくて書いたというよりも、他者から見られる場に自分のネガティブな部分をさらけだすことで、自分自身の殻を破っていたのかもしれない。

すると、恥ずべき失敗だと思っていた過去の経験が、ありがたい学びという認識に変わっていった。私の苦い経験が、誰かの勇気につながることも1度となくあった。
ネガティブだと自分が感じていることは、ネガティブな気持ちを持って(またはニュアンスで)話すことで初めてネガティブになるのであって、単に事実として話せば、実に淡々としていたりする。例えば、後ろめたさを感じながら離婚したと話していたら突っつかれることもありそうだが(子どもがかわいそう、実家にどうして戻らないの、など)、シングルマザーです、と普通に言ってしまえば、反応されることはほとんどない。
離婚直後、友達に話してみてびっくりしたのは、実は私もバツイチなの、とこそっと教えてくれた友達の多さ(こんなにも離婚って当たり前なのね、と驚いた)と、「うらやましい」「いいなー」と言われたことが少なからずあったこと。実際、そこから(私の経験だけが理由ではないと思うが)離婚した友達が3人もいたのだ。夫婦関係が破綻していたり本当は別れたいと感じ続けているのに見ないふりをしていたことに、気づいたのかもしれない(そして、一度決意してしまうと、女は強いなと思った)。

自己開示しすぎにも注意

私は人をすぐ信じてしまうところがあって。もうアラフォーともなれば、それはそれでいいか、楽しく生きられるし、と、この信じやすいところをあきらめているところがある。しかし苦い経験をしたことも。
自分の弱い部分を見せることで肩の力が抜けて楽になったり、共感してもらうこともあるが、それを人に言われて傷つくような内容だとしたら、それはまだ自己開示する段階ではないかもしれない。また、情報を出すことで誰かが傷つくなら、それも情報を出す前に、よくよく考えた方がいい。
最初は、安心できる人に開示するところからがオススメだ。この人はどんな自分でも受け止めてくれるだろう、という人。それから、話題と全然関係ないところにいる人も、案外話してみるには安全だったりする。

ネットの社会はボーダーレス。どこか一か所で情報を出したら、もう全世界に知れ渡ったと思った方がいい。隠しておきたいと本気で思うことは、秘密にしておいた方がいいかもしれない。

私も、苦い経験、未解決の感情もあったりするが、どうしたらいいか分からないそれらを持っていながらも、なるべくオープンで、そして等身大でありたいなと思う。肩肘張らず、ありのままの自分を見せることで、私はそのままでいいのだ、という自己肯定感が自分の中で育まれるのかもしれない。

あまり人に見せたくない、自分の嫌な部分。
それをあえて開示してしまうと、生きていくのが楽になるかもしれませんよ。

よかったら、お試しあれ♪

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