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ニコヨン(#14 ニュース映画で現代社会を勉強しましょう)

ニコヨン労務者と女性

終戦直後は失業問題がきわめて深刻でした。

昭和20(1945)年11月の復員及び失業者数の推計は1,342万人で、これは、全労働力の30~40%に当たる人数であった。

そうした失業者に対する政策の一つが、この失対事業ですが、実態は若干複雑です。戦後、引き揚げてきた男性が復職することで、戦時中から働いていた女性が職を失うケースや、いわゆる戦争未亡人、さらに何らかの理由で正規雇用に就けなかった人々が、主に失対事業に従事しすることになります。
こうした理由で、失対事業の労務者には女性が多かったのです。
特に戦前は女性が職業に就くということは余りなく、多くの失業者は職業教育を受けた人たちではありませんでした。そのため、失対事業は単純な肉体労働が多かったのです。

失対事業で整備して来たインフラは、行政の記録には殆ど残っていませんが、戦後の地域においては重要な役割を果たしたのは間違いない事実です。唯一、狛江市のWebに失対事業に関する記述があります。

失業対策事業は戦後の失業者を救済する目的で、最初、国の事業として始まり、狛江町でも、昭和29年に建設課を新設し、失業者を受け入れて失業対策事業を開始した。当時、この失業者に支払う日当は240円程度だった。…
昭和30年頃の失業対策事業は、町道の砂利敷きや河川のしゅんせつ、草刈りなどで、当町の道路工事のほとんどが失業対策事業で行われていた。当時の道路工事は、砂利道が多かったため、不陸直しや砂利敷きであったが、30年代後半には、砂利道を舗装する工事や耐水排水のためのU字溝を敷設する工事も行うようになった。舗装工事といっても、ツルハシで不陸を整え、砕石を敷き、乳剤を散布機でまき、その上に砂をまいてローラーを転がして圧縮するという簡易な舗装工事である。

昭和31年の「建設の陰に働く人々」でも取り上げられていた、U字側溝が作られていたことがはっきり書かれています。

U字

労務者と言う呼称は、元々軍務者に対する語でした。戦時中、軍が徴用した兵役以外の従事者を「軍務者」と呼び、主に民間が徴用した肉体労働者を「労務者」と呼んでいました。労務者は、朝鮮や中国からの連行者を多く含んでおり、さらに危険な作業に携わる者というニュアンスが色濃く、どこか蔑称としてのニュアンスを含んでいったようです。
同じように、失対事業従事者の呼称だったニコヨンも、この労務者と同様に時間が経つにつれて蔑称になって行ったと考えられます。この映像が流された昭和31年時点では、まだ使われていたようです。

川崎市政ニュース映画に限って言えば、労務者という用語は、昭和35(1960)年1月26日「川崎市に簡易保育所」で使われるのが最後です。

川崎市では、このほど、高津地区の下作延に県下でも初の試みとして、日雇い労務者の子供を専門に預かる簡易保育所を新設しました。

これも今の観点からすると、若干驚くような表現です。

ナレーションの「ところが最近、これらの人々のありかたは余り評判がよくないようです」という表現は、今の生活保護と同様に、失対事業も当時、誤解や曲解されていたという点もあるようです。

この映像は、数ある川崎市の市政ニュース映画の中でも、貴重さで言えば断トツのものでしょう。映像の中でお弁当を食べる失対労働者の方の、屈託のない笑顔に、なにか救われる思いがします。

失対1

結局、失対労働者の人々は、正規雇用とは区別され、「陰で働く人々」「評判が悪い」と言われ、労務者と総称されてさらにニコヨンという呼称が蔑称ともなっていくということは、厳然たる事実です。
そして見過ごされがちですが、それらの人々は、戦争によってそういう立場に追い込まれたというのが、その実態です。
それらの人々が、身近なインフラを作っていくのに大きな力になったということは、この映像が明らかに示しています。


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