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本当は、子どもを叱るよりも「受け止める」のは大変なことなのです。

最近、強く感じていること。
それは、「いまの子どもたちを受け止めること」を、本当に出来ているのか?ということです。

きっかけは、去年と同じように保育することの危うさを感じたことでした。

保育園ではよく、「去年はこうだった」「去年の子どもたちはこうだった」、と言う言葉を聞くことがあります。
それに対して今年の子どもたちの発達が少しでも遅れていると、「去年の子どもたちは優秀だった」と言うようなことを口にする方がいらっしゃるのですが
私はその感覚がちょっと怖いなって、純粋に思います。

去年の子どもたちより遅れているから
「できるようにさせよう」とどんどんお尻を叩く指導をする。
それって、本当にいいやり方なの?と疑問に思うのです。
つまり、これはいま現在の子どもたちを受け止めない都合のいい言い訳に聞こえてしまうのです。

だって、そこで思考停止できるから。はっきり言って楽なのです。
「去年に合わせれば良い」と心のどこかで思っているのだと思います。

本来は、「現在の子どもたち」を見ることが大切なのに。

大前提として。
人はみんな違う。
子どもたちもみんな違う。
一応、定型発達という発達の雛形はありますが、
それは家庭の事情や環境などによって順番が変わる場合がよくあります。

発達が追いついていない場合は、
今までなかなか発達段階を踏めなかったことをやり直すという思考ができます。
もう一度その発達段階をやり直す仕組みを作ってあげることで
定型発達に追いつくことはできます。
その仕組みを整えることこそがわたしたち保育者に求められていると思うのですが、
この発想は、「いまの子どもたちを見る」こと無しには出てこないのです。

子どもたちに関わる際は、観察と思考が欠かせません。
集団保育、集団教育では容易に大人の都合の良い方向に流れてしまい、
子どもたちのSOSに気がつけない場合が多々あるなと思います。

子どもたちを受け止めることは、そこからどうしていこうか?の思考を巡らせることに繋がるけれど、
「こうだったから」「こうするのが良いとされているから」の思考だと、それで自分のやるべきことは提示されている状態なので
それ以上、裏にある大切な本質に気がつけない。

甘やかしと間違わられることもある、受容の姿勢には、
この上ない労力と忍耐が必要とされているのだと
わたしは感じています。

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