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3/6 『「書くことがない、」と書いてみたら文章が書ける不思議を何度も見てきた。』

 書くことがない。でも、文章を書いてそれを発表して誰かに評価されたい。だから、とりあえず書くことがない、と書いてみる。でも、こんな文章もまたありふれている。書くことが思いつかない、とはじまる文章を、私は他にいくつも読んだことがある。つまりこの文章は冒頭から手垢にまみれたありふれた文章ではじまってしまったということだ。


 週末に福岡に行こうかと、ふいに思いついて、でもじっさいに行くかはまだわからない。普段と違う行動をしようとすると、急にめんどくさくなったり、お金かかるしなあ……とかいろいろ言い訳しだしたりする。いくなら土曜日の夜か、日曜日の朝に行って、日曜の夜には帰る、あるいは月曜の早朝か。もし私が健康で、行けたなら誰かお会いしてくれるとうれしい。福岡の、いろんな人が集まって交流ができる場所に行ってみたい。

 なんて書いてみて、すぐに気が変わる。本当にふらふらしている人間だ。そもそもそんな行く体力があるか? わからない。自分にとっては、ちょっと福岡に行くだけで、いまは体力をかなり消耗してしまう気がする。むずかしい。自分のことがいまだにわからない。思ったより強いんだなと思うこともあれば、こんなによわよわだったかとなることもある。躁鬱という概念を使って考えれば楽に理解できることもあるが、それだけだと雑な気もする。

 
 そういえば、昨日の夜に髪を染めた。軽くだが、明るくなった。自分でしても染めているときに髪は痛くならなかった。これは私が慣れてきたからなのか、それとも市販のカラー剤が進化しているのか。きっとそのどちらともだろう。でもあの強烈なにおいに慣れることはない。
 
 
 こんな風に、思い付いたことを適当にそのまま書くことは楽だ。読む側がどう思うかは知らないし、人は書いているときにそんなことを考えることはできるのだろうか。なんだろう、もちろんできるとは思うのだが、それができるようになるためにはある程度の時間が必要である、つまり、書いて時間を置いて文章を発酵させ、あとからじっくりと読み返してようやく、それが他人にどう届くのかが少しわかる。この場合の他人とは、自分がその文章を他人として読むということだ。でも日々の日記のようなこの文章でそんなことはしたくないし、ていうかめんどくさがりの私にはできないから、適当に書いていくことを続ける。

 
 私は餡子が好きで、餡バターサンドとか、そういうのに目がない。ああ、餡子。あの甘いつぶつぶを食べるだけで、しあわせになる。それを想像しただけで、生きていける。ああ、餡子。


 とりとめのない文章を進めていく。こういうとりとめのない断片を書くと同時に、長い文章を書きたいとも思っている。それはどういうものになるか。いまは小説を書いている。小説はいつ書いてもむずかしいと感じる。こういう文章はそもそもおもしろいことを書こうとそんなにしていないから、力が勝手に抜けるが、小説を書こうとした瞬間に、なんというか、突然にかっこつけてしまう。それがとてもダサくて、いかにかっこつけない小説を書くかがポイントになるのだが、しかし力が入る。つまらない文章を書いてしまう。

 
 村上春樹は毎日五時間だったか六時間だったか、とにかくそれくらいの時間を必ず書く時間にあてて、そして10枚は書くみたいな決まりを設けていたとインタビューで言っていた、言っていた気がする。そして走る。贅肉がついたら小説家は終わりだと言う。その意味はなんとなく分かる気がする。私は贅肉しかついていない。身体にはもちろん、精神にも。

 
 つまりは贅肉を落としていく作業が必要になる。まず肉体からゆるやかに落としていく。さいきん、本当にお腹が減ったときに食べようとしている。そして食べているときに、食べることに集中するということを心掛けている。ひとりで食べるときほど、食べることが疎かになる。不思議だ。誰か好きな人と一緒に食べるときは、その人のことも考えているのに、一人のときより食事に集中している。この違いはなんだろう?

 
 さいきんK-POPの布教を受けていて、受けているというか、されにいっているのだが、それが楽しいからK-POPをよく聴く。ファンになるほどハマれるかはわからないけど、好きなものを語る人は素敵だと感じる。あの熱量。話すスピードや、声の高さが変わる感じがする。必死にそれを抑えるタイプもいる。抑えようとしすぎてそれはそれで変な感じになって、おもしろい。かわいらしい。自分はそんなに語れるものがないから、羨ましいと思うのかもしれない。

 
 何かを好きと思う気持ちは、いろんなことを繋げてくれる。好きがあたらしい好きに繋がるし、人と人とも繋げてくれる。私はもっといろんなことを好きになりたい。いろんなことにかわいさを見出したい。そして笑っていたい。

 
 いろんな人のことを好きになれる能力はたぶんそんなにない。人並程度か、それどころか嫌いな人は多いし、もう人間なんて嫌だあとメンヘラることも多い。でも、自分自身が健康でさえあれば、いろんな人のことをおもしろがれる。結局は自分自身の状態がどうあるかという問題になるんだなあ。癖として、この人はどういう人なのか、と考えることよりも、自分はこの人のどういうところをおもしろいと感じられるか、という発想になる。でもそれは、ある程度の好意を持てている状態でかもしれない。初対面からめんどくさいなコイツと思ってしまったときは、いかに距離感を保つかしか考えない。それは互いにそうなのかもしれない。でも、なんだコイツと判断するスピ―ドがいまの私は早すぎる気もするから、もう少し緩めてもいいかもしれない。

 
 珈琲の味の違い。私は酸味が強い珈琲が好きで、しかしどうやら珈琲には苦味を求める人が多いらしく、なかなか好きな珈琲にお店では出会えない。ならば自分で淹れるしかないかあと、コーヒーミルとか諸々を買うかどうか迷ってる。買うならそんなに安いやつは嫌だし、しかしぜんぶそろえるとそこそこのお値段になる……。なんてことを考えてたら二カ月経っている。

 
 しかし、そういうささいな違いが人生を豊かにするんだろう。前の私はそういうことはバカにしていた。「コーヒー?ぜんぶ一緒やろそんなもん」くらいに言うてた。それがコーヒーの淹れ方にまでこだわり出しているし、人はあっという間に変わっていく。私は影響を受けやすい。それは自分の良いところだと思っている。

 
 いまはバタイユを読んでいる。なんでバタイユを読んでるかというと、この前行きつけの本屋に行ったら、かなり昔の現代思想(雑誌)があり、それがバタイユ特集だったのだ。それを珈琲を飲みながらなんとなく読んでいると、これが意外におもしろく、ふたたびバタイユを読んでみようという気になった。いま読んでいるのは酒井健の『バタイユ入門』で、とてもわかりやすい。

 
 朝ごはんにプロテインとゆで卵を食べる。いや、別に鍛えたいわけでもないんだけれど、不思議とお腹が空かなかったから、なんかこうなった。たまにこういうときがある。せっかくだし筋トレもしとこうと思って筋トレをする。苦しいのは楽しい。

 
 一日にいろんなことを思い考えているのだろうけれど、そのほとんどを忘れてしまう。だから、昨日も同じことを考えていたことに気が付かない。いや、一年前も、十年前も同じことを考えている。それはもはや考えですらないのかもしれない。反芻。時間を使った心の反乱作業。それを鎮めるための瞑想と記録。言葉。文章に綴る。それがこの日々の記録。それを読む、とても不思議な存在であるあなた。ありがとう。今日も生きよう。軽やかに、鮮やかに。

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