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誰かのためにデザインする、料理する

デザイナーとして仕事をする一方で、家庭料理家の道を開くようになったのは、デザインするプロセスと人のために料理をするプロセスが似ていると思ったからだ。家庭料理から学ぶことは、デザインにも通ずる。そういうことが多くあり、料理学はデザインへの私の理解を助けている。

何を作るか考えるということ

家庭料理の献立はあらゆることを考える。食べる人の好み、旬の素材、冷蔵庫にあるもの、栄養バランス、昨日は何を食べたか、テーブルに出す順番など、ひとつひとつ瞬時に判断して何を作るかを考えている。このプロセスは、何をデザインするかにも言えることではないだろうか。ペルソナやユーザー像を見立てて、誰かのために何をデザインしようかと考えを巡らせることは、料理に共通している。

料理は表現だという見方もある。見た目の美しさ、飾り切り、盛り方などについ考えが先んじてしまうことがある。しかしそれで作るものを決めてしまうことは、提供側の得意顔でしかない。素材や食べる人のことを考えた先にあるところに、おいしさや うつくしさがあればなおよしというくらい、家庭料理は提供側の「繕い」は消えているべきである。誰かのために何を作るか考える。単純なことだがデザインと料理の出発はそこからである。

意識するもの、しなくてもよいもの

家庭料理研究家の土井善晴氏も、最近の貴著で書かれているが、家庭料理は、大切な誰かのためにおもてなしをするものと、日常のものと大きく2つある。柳田國男氏が提唱した「ハレとケ」という概念になぞられる。お正月など節句や、めでたい時、晴れの日にふるまわれるのはまさに「ハレ」であり、おそらくみなさんが今朝食べたものは日常のもの「ケ」であったに違いない。

「ハレとケ」では料理に向かう姿勢が違うのかといえばそうではない。日常だから適当に調理するというのではなく、食べる人が意識することなくきちんと食事ができるものを作ること。そしてそれは飽きることのない、繰り返しの毎日を支えてくれるものになる。これは毎日使うアプリやサービスに求められるデザインの考え方とも言える。

品数を増やすことでテーブルはにぎやかになるが、食事する行為を意識しなければならない。そういった食事の楽しみはハレの茶懐石にある。日常の家庭料理で最初に求められるのは品数ではなく、あしらいや飾りのない、何も意識しなくてもよいものである。デザインする対象が、にぎやかしなのか、使い続けてもらうものなのかをまずは見極めたい。

基準を持つ、その先にあるもの

ほとんどの料理家が感じていると思うが、レシピというものほどアテにならないものはない。家庭料理こそ、それぞれの家にある鍋の大きさやコンロの火加減、買ってきたジャガイモの大きさも違うわけで、強火や弱火にする、何分茹でる、というのは仕方なく数値化したものである。なるべく完成に近づくようなレシピではあるが、家庭それぞれで調理方法は異なる。

そのような経験の中で見えてくるのは自分の「基準」である。こうしたらうまくいった、前回こうしたから今回はこうしてみよう、というのは自分の中に基準があるからである。この考えができるかどうかで、素材をおいしいままで料理できるかが決まる。基準がたくさんできると、おのずとレシピの数値は見なくてよくなる。その料理がどうやって成立しているのかを知ることができれば、料理は完成する。

今はデザインツールもデジタルがほとんどで、UI デザイナーという仕事が確立された今はほぼ 100% デジタルのデザインである。デジタルのデザインは進んでおり、世界観をつくるという目的でデザインガイドラインが示されたり、誰でもデザインできるような環境が整ってきている。そもそも基準があるということは、デザイナーは作る以外にどういう役割を担うことになるのか考える機に来ているのではないかとも思う。

家庭料理の提供を通じて得られるものとは、日常であれば安心という体験であり、口にしたものが自然に自分の体になり力になってくれるものである。家族ができれば、親が子のために何かを作ってあげる。提供側は、誰かのために考え、自分の基準をもって作るが、それは作るというところだけに決して留まらない、食べた人が元気で健やかに毎日を過ごせるように願うプロセスがある。デザインにおいても作るというところに留まらず、単純に誰かのためにと思い、考えを巡らせていきたい。

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