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【より良い人生】父が教えてくれたこと、そして父に伝えることの大切さについて

別で、父という「昭和のサラリーマン」から?「昭和のサラリーマン」だった父から?教えてもらったことを書きました。今回は父という人間から教えてもらったことを今後の自分に対する備忘録も兼ねて記事にしたためたいと思います。

◆チャレンジを続けること
私の名前には開拓の「拓」という文字が入っています。小学生くらいになって、自分の名前の由来を聞いたときに「道を切り拓く人になってほしい」という思いから名付けられたと聞きました。そこから10代を経て、社会人になるまで、自分なりに自分の道を切り拓いてきたつもりでした、とはいえ、どこか「開拓」というほどのことは成しえておらず、名前負けとまではいかないものの、気になっていました。社会人になって、20代、30代とブラックな環境で仕事に勤しみ、その中で悩み・苦しんだ時期には私は「開拓」するほどの男になれないと、若干ですが自暴自棄にと思ったこともありました。いま40代になり、自分なりに言葉の解釈ができるようになって、そして今の世の中も含めて、チャレンジを続けることが大事だと思うようになりました。リスキリングや学び直しといった言葉が流行るようになって、改めて失敗をしても良いからチャレンジを続けることが大事なんだと感じています。

◆限界を決めないこと
私は大学を目指したときに、住んでいた茨城から東京に出ることと、自分が通っていた高校のレベルから考えた場合にまあまあ良い方かなというMARCHに合格することを目標に勉強をしていました。とはいえ、真剣に受験勉強を開始する高校3年の7月までは部活動一色の生活で、授業中も所属していた部活動のスポーツのことを考えていたり、3,4限目で隠れてお弁当を食べたり(いわゆる早弁したり)、テスト1週間前になって徹夜で詰め込んで何とか赤点・補講を回避するような高校生活をしていました。1学年450人いる生徒の中で1年生の最初だけ100番くらいで、それ以降は一番悪いときは430番くらいで、コンスタントに400番くらいで推移していました。そのため、高校3年の7月時点で偏差値は40という状況でMARCHの合格なんてことを言うことも憚られる状況でした。とはいえ、友人に恵まれたこともあり、猛勉強する環境になって受験直前には偏差値60くらいまで上げることができて、MARCHが現実味を帯びて受験を迎えることになりました。受験をするにあたって受験料もかかるので、父と相談して滑り止めを受けるかどうか等を話す中で、父から言われたことは一つだけ「早稲田か慶応を受験しなさい」というものでした。偏差値40だった私が急成長したとはいえ、受験するのも憚られるし、受かる訳もないし、受けるということ自体も恥ずかしいと思っていましたが、滑り止めは受けなくて良いから「早稲田か慶応を受験しなさい」という話しでした。日頃からこうしなさいなんて口うるさく言わない父がそれだけは譲らない様子だったので、本当に渋々という気持ちで早稲田を受験しました。結果は早稲田はもちろんのことながら、すべて不合格。浪人が決定しました。ただ、早稲田を受けたことでMARCHにすら合格していなかった自分ですが、早稲田のキャンパスに触れて、憧れる気持ちが生まれて、そして早稲田に行くことが目標になりました。それから、寝起きの悪い私は目覚ましがわりに、朝7時に早稲田の校歌「都の西北」が流れるようにセットして、自分を奮い立たせて起床して、予備校に通う1年を過ごしました。目標が明確になり、同じような目標を持つ友人にも恵まれて、まさに切磋琢磨して教えあいながら、1日10時間近くの勉強を1年間も続けることができて、早稲田に合格することができました。その後、冗談交じりに東大を受験しなさいと言ってくれれば受かったと軽口をたたいたこともありましたが、何より父から限界を決めないことの大切さを学びました。

◆ポジティブであること
私が社会人になるときに、父は50代後半で当時サラリーマンとして終盤を迎えるような状況でした。父は一部上場企業のサラリーマンとして働き、それなりの出世も果たした状況で、それに満足・不満足ということもない様子でした。そんな父から社会人になる私に一言だけ言われた言葉が「常にポジティブに考えなさい」というものでした。その頃は何を言っているのかな?と思っていましたが、ブラック企業に勤めて20代、30代とすり減るような毎日を送る中でポジティブにいたいと思うものの、そうできない・そう思えない状況が続きました。とはいえ、希望する・希望しない異動も経ながらも、与えられた場所で精いっぱい頑張って働いたことで、多くの仲間・上司・部下に恵まれて、マネジメントに昇格することができました。1度ならず、2度も3度も挫折も経験して、正直なんども会社を辞めようと思ったことがありましたが、ポジティブであろうとすることで何とか保たれたと思っています。いま振り返ってみると「常にポジティブに考えなさい」という簡単な言葉はとても奥深く、俯瞰して捉えるということであったり、客観視するということであったり、ちょっと難しく言うとメタ認知するという大事な要素が詰まった言葉だったんだなと思っています。

この3つの言葉について、私は脳梗塞で倒れた父を見舞う中で、まだ意識がはっきりしている父と会話する中で、これらの言葉は私の人生にとても役立ったということを伝えたものの、父は「ほう、そうか」「そんなこと言ったっけ?」というリアクションでした。それは照れだったのか、本当に覚えていないのか正確なところは分かりませんし、今や病室で会話することもままならない父と答え合わせすることもできませんが、私としては父の言葉が私の人生に役立ったと意識がある父にちゃんと伝えられたことは良かったと思っています。

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