レトリックの解体『ニッポンの思想』(増補版)佐々木敦

管理社会の問題は、言語的なものか、はたまた記号論的なものか。

2020年代に観光客を考えると、それは受け身として、観光客されるという事かもしれない。

例えば、銀座のパサージュ(アーケード)を、どのように考えるべきか。

年代別のニッポン思想は、10年周期になる。

浅田彰のドゥルーズ。蓮實重彦のドゥルーズ。

そして、東浩紀はデリダとして現れる。そこまでがゼロ年代の総括でした。

来るべき10年代を前に、旧版の筆者は、やや悲観的にも思える。一方で、増補版では、やや楽観的に思える。前向きにみえる。

この点では、ゼロ年代の今際には、悲観的なものを肯定するような瞬間に、それが時を経て、自分自身を客観にキュアーしてもいた。

思い返せば、歴史として、大不況の時代は、サブカルチャーのようなものは、どこかでユートピアを希求しても、その危機を見ないふりをしていたかもしれない。

浅田や柄谷は、その傾向を例えばドイツ哲学的な発想から現代思想していたように思えます。

その一方で、東浩紀の明晰性は、一般には認知はされるが、その全貌はいまだかつて明らかになっていないという複雑性もある。それは、現代思想の生成は、ひとつは論破される、そしてアップデートされることになる。

その点では、webのバージョンみたいに、偶然と必然によって振り返られるのかもしれない。

一方では、なぜこんなにもひどいのか世界は。という問いは、國分に顕著であって脱政治の政治は、旧来型の現代思想として表現される。この場合の二項対立は、『暇と退屈の倫理学』で示されたようなシステムと人間の問題(社会学)かもしれない。

それを媒介するものとして、暇と退屈がある。

佐々木氏は、このあたりを再帰的に、歴史として振り返っていると思うし、何かの変化は重要だと。それだけは言い切れると思う。

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