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アスカは、宮崎駿。『シン・エヴァ』が理解出来なかったのでプロを参考にしたら悟った?

先日は、シン・エヴァンゲリオンの予想をしましたが、全て間違っていました。すいませんでした。

素人では限界を感じましたので、プロの解説を参考にしてみたいと思います。

ネタバレ注意お願いします。(5000文字強。長いです。)

序:アニメ批評の巨人、岡田斗司夫

岡田さんは、ニコ生ぬし、兼ユーチューバーのオタク文化評論家です。学生時代に庵野監督の才能を見抜き、後に新世紀エヴァンゲリオンを作るガイナックを創業し、辞めています。

近年では、オンラインサロンの始祖として今日のホリエモンを生み出した未来学者として注目されています。主著『ぼくたちの洗脳社会』。

それでは、岡田さんのシン・エヴァを解説します。

破:岡田斗司夫のシン・エヴァ

まず、シン・エヴァは卒業式であると定義します。それによって様々な感情が生じることによって、終わった感があると言います。

技術面では、スターウォーズで使われている「プレビズ」という技法によって、制作前に撮影した映像を使って絵コンテを作ります。

絵コンテは映画の設計図で、アニメではこれの完成度が、作品の品質に大きな影響を与えます。これによって、映画をアートの域にまで高めていると語られます。(葛飾北斎、村上隆の作品を参照)

次に、映画の構造が解説されます。ゲンドウと冬月、ミサトとりつ子のように、指揮官と副官の関係性が、ネルフとヴィレの対立に完全に配置されています。

その構造美がエヴァの魅力です。

続いて、ストーリーの解説になります。ヤマト作戦とは何かです。

これは、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』と『惑星大戦争』を引用した特攻作戦になります。ここでは、いけにえによる犠牲がポイントです。

親子の対決の場面では、東宝映画の島倉二千六(ふちむ)による雲や、ウルトラマンAの低予算ジオラマなど多くのオマージュが挙げられています。

最後に衝撃的な事実が告げられます。

碇ゲンドウと渚カオルが同一人物の別人格であるというものです。

ゲンドウの乗る13号機の登場シーンのポーズの類似性、二人の共通点であるピアノに注目しています。そうするとエヴァQのピアノ連弾の意味が理解できます。

このように、「破壊で本質を、オマージュで受肉する」ことによる表現が庵野監督のスタイルであって『シン・エヴァ』のすごさなのです。

Q:クエッション。それでは、どうなる。

岡田さんを、まとめます。『シン・エヴァ』は徹底したカットの追求と、完全なシナリオ構造によるドラマによって成立しています。

ここで課題になるのは、完全な映画は、原則的に面白くないはずです。

例えば、富野由悠季『ターンAガンダム』は、「かぐや姫」の「とりかえばや」という構造で、月と地球、主人公の2面性など、パーフェクトガンダムといえる構成ですが、作品の見どころはそれ以外の部分です。

でも、エヴァは完全性と娯楽性を両立している。完璧な作品です。

このような直線的で繰り返しの物語には毒が必要なのではと考えました。猛毒が。

僕のシン・エヴァ /加地/リョウジ/の/場合/

葛城ミサトの恋人加持リョウジは、ディープエコロジストです。生命の存続と多様性を重視し、必ずしも人類ファーストではありません。

このような思考は、90年代の宮崎駿を思い出させます。これは、人間重視の観点から、自然を重視する発想です。植物や昆虫、石ころにさえも、命が宿っているという考え方です。

これを宮崎は、日本人の信仰(のようなもの)に結びつけて、自らの信念としています。(もののけ姫の自然)

加持は、自らの使命を人間に託す訳ですが、ディープエコロジーの思想を、葛城ミサトを中心とした人間に託します。(『スパイの妻』、スパイの彼氏彼女の事情)

この点では、人間中心の発想です。この構図は、一人の犠牲で世界が救済される『アルマゲドン』ですが、シン・エヴァは、目的論的にはっきりとゴールを持ちます。

/葛城/ミサト/の/場合/


ミサトは、恋人の思いに感化される訳ですが、ここで必ずしも愛情は優位ではなく、使命が重要です。

劇中では、ヴンダーから生命の種を、射出しますので、加持の思いは遂げることが出来ます。人間がいなくても必ず生命は残ることが約束されます。

思いを遂げたミサトは、恋人と同じような最期を遂げます。使命のみが優位ですので、彼氏彼女の関係を高める形でのおわりです。

これは、『アルマゲドン』の繰り返しではありません。恋人たちの犠牲は、使命の共有、継承という彼氏彼女の事情による愛です。

そうして碇シンジ君に全てが託されます。

序盤の彼は、映画『メランコリア』の主人公です。社会の問題、家族・友人の問題に悩みふさぎ込むのですが、これは、すべて自分の内面の問題です。

メランコリアでは、地球が滅んだら生命は全て宇宙からいなくなる終わりが描かれます。

シン・エヴァは、生命の存続を前提としたヒトの終わりに向かう物語です。それがラストでひっくり返されるわけです。(ヤマト作戦は特攻です。)

エンディングは、シンジ君の思いを母親が救済する訳ですが、これは父親からの息子への信頼であって、自分と似たこの子なら必ずこういう選択をするという確信です。

これは、奇跡ともとれますが、ゲンドウは、すべてをコントロールしているようにも思われます。両義的です。

こういうラストだと、加持リョウジ、葛城ミサトの息子は報われます。子供にあわないという二人の問題が、シンジ君親子(家族)の問題とシンクロして解決される訳ですから、真に感動的です。

生命の問題は、こども達、次の世代に託されていくのです。

エンドのエンド(目的の終わり)

ディープエコロジーは生命重視の思想ですが、負の側面としてはナチス思想の一部であったことです。

その思想のヴィレですから、悪から生まれた正義かもしれません。ヴンダーはそれを象徴します。自らと戦う宿命になります。(デビルマン?飛鳥了はアスカ?)

そうすると、碇ゲンドウは、ヒトラー的な人物になります。芸術(ピアノ)に挫折し、勉強(本)に取り付かれた存在です。

(ヒトラーの問題点は、人格だけでなく「いい人」にみえる「イメージ」です。本質よりも、広告的な虚像を重視し固執する)

こう考えると、映画冒頭のフランス解放の意味が解ります。ナチス電撃戦による荒廃と支配からの復帰です。

ネルフとヴィレの対立構造に注目します。ストーリーは、この対立構造を、完全に解決する形で進みます。

解決される何かがなければなりません。それを言語化しなければなりません。

岡田さんの解説では、ネルフとヴィレの対立構造は完ぺきなものですが、軍隊の組織の問題です。司令と副指令どうしの対立です。ネルフは2人だけ、ヴィレは2人とすべての生命を含みます。

これを複雑化した、三角関係と三角関係の対立構造として捉えるのはどうでしょうか。

碇ゲンドウ、ユイ、冬月の三角関係。葛城ミサト、加持、リツコの三角関係。

これに、シンジ、アスカ、アヤナミも含めると完全なカオスになります。三角関係の、もつれのもつれ。リっちゃん。

もちろんこの旧作の問題(カオス)が、解消されていくのが『シン・エヴァ』です。そうすると過去から未来への構造、旧エヴァからシン・エヴァへの黒歴史から新しい歴史でしょうか。

このようなエグさは、物語の解決によって隠蔽されますが、舞台装置の露出というメタ、ベタなサスペンス劇によるギャグパートによって、際立ちます。

A:アスカ編

宮崎駿はアスカである。なぜか。

これを思いついたキッカケは岡田さんの解説です。この中で、アスカの役割が、いじわるで、そっけないけど、実はシンジ君の事を思って接している。

庵野監督は、映画『風の谷のナウシカ』では、巨神兵のシーンを担当しています。宮崎監督は、庵野監督の才能を見抜き、「宇宙人」と称します。一番うまいということです。

一方で、完璧主義の庵野監督に対して軋轢もあったようです。根負けしたのは、宮崎監督です。

映画『風立ちぬ』をみてみましょう。主人公二郎の声優は庵野監督です。自身とキャラクターとの共通点として「夢を形にしていく」を挙げています。

この映画のラストは、ヒロイン菜穂子から二郎へ「いきて」というセリフです。庵野監督は、これを宮崎監督からのメッセージと捉えているようです。(nhkドキュメンタリー、風立ちぬ)

思えば、旧作のエヴァンゲリオンを一番批判したのが宮崎駿、体調を崩した庵野監督を気遣ったのも宮崎駿。このような師弟関係が、作品と現実の境界があいまいな形で存在しています。

結:ユイ編

『シン・エヴァ』は、日本の歴史上、はじめて宮崎駿を追い詰めたように感じます。

シン・エヴァのジブリ批判の側面です。私見では、宮崎駿はアスカとして昇華される絶対的な存在です。一方で、作品のスタイルとしての破壊は近年の宮崎作品には見られません。

『ナウシカ』シリーズと『もののけ姫』にあったものは、近年のロマン主義的な作品には見られません。

個人的には『風立ちぬ』の完全な構造を好みますが、映画としては内省的にも感じます。

宮崎監督は、最後の『紅の豚』であってほしいです。ポルコ=宮崎の登場する機体は、真紅のボディで、アスカのエヴァと共通しています。

ポルコよ、時間だ。さあ、とべ。

ジブリに突き付けられた、エヴァの呪縛は、『君たちはどういきるか』の問題です。アフター『シン・エヴァ』に対応した作品でなければ、意味がないように感じてしまいます。

これまでの日本アニメを振り返ります。

『まどかマギカ』のシンクロ。
それは、シンジ君の神格化と、ユイによる救済。


『この世界の片隅に』のコア。
それは、エヴァの日常。


過去の作品は、必ず論破されるような、時代の残酷さにさらされます。否定されるもの、それでも残るもの、時代の忘却から逃れるもの。そんな奇跡だけが残り続けるのです。

結論。『シン・エヴァ』は、100点満点の△(三角)。外面で内面を表現し、構造がテーマする。上は下で、下は上の三角関係。ゆえに傑作。

岡田さんの言う、オマージュによる受肉を使った関係性の見え隠れ。ドロドロからリアルへ。それが、僕の『シン・エヴァ』。

間違いなく、すべてのエヴァを終わらせています。


以下脚注:時間があったらお読みください。

脚注1

(2項対立の物語構造は、ジブリの高畑勲が理論化し、宮崎駿が発展させたものです。正義と悪の対立は、悪は正義、正義は悪というふうに逆転します。

それをストーリーで解決する手段が、ジブリの弁証法です。構造主義的で、マトリックスな漫画『風の谷のナウシカ』は頂点です。

『シン・エヴァ』は、それの発展系ではないでしょうか。3角形のような緊張関係をフロイト心理学し、解決する手法を取っています。

ここではナウシカの絶望は解消されています。

『シン・エヴァ』のテーマは実存(存在)ではないでしょうか。実存は現れなので自己はありません。自己が無ければアイデンティティもありません。矛盾です。でも人間には固有性(複数性)があり、悲劇による物語性があるので、生きる、それだけです。)

脚注2

(『シン・エヴァ』の『シン・ガンダム』性に注目。『シン・ガンダム』とは逆襲のシャアのニューガンダムのことです。庵野監督は、完全なナウシカフォロワーですが、富野由悠季の影響が伺えます。(『伝説巨神イデオン』)

同じ1941年生まれの二人の監督。富野監督は、作家性丸出しの本音と嘘。宮崎監督は、内向的で、うそぶく感情表現(恋愛)。

全裸監督が「パンツを脱いだ」(風立ちぬドキュメンタリーより)のが、『シン・エヴァ』です。

作家性のむきだし。これまでも、これからも、ずっとそうなのです。)

脚注3

(上は下。下は上とは。

繰り返しになりますが、風立ちぬの概念。下は、下の監督で、ジブリの地下で録音を行う庵野氏。上は、上の監督で、コントロールルームで見おろす宮崎氏。

声優である下の監督が、だんだんと介入していき、上と下の監督の区別がつかなくなります。ラストのセリフ変更にも干渉しているようです。

庵野監督は、本質的にゲンドウのような政治家なのかもしれません。

ふたりの師弟関係は、ゲンドウと冬月?、ゲンドウとシンジ?、ゲンドウとユイとアヤナミ?)

脚注4

(シン・エヴァのアヤナミについて

彼女は、シンジ君が立ち上がるきっかけですが、なぜか。

簡単には答えが出せません。

彼女の、AIやロボットのような学習機能に注目します。「AIは東大に合格できるか」というような形でAIを定義しています。

ヒトのようなAI、AIのようなヒト。ヒトとAIをわけるもの、感情の問題です。まごころ。

シンジ君は彼女の死に何を感じたのでしょうか。

なぜ私達は、彼女の死に心を動かされるのでしょうか。うーん。わからない。)

リンク

1.『シン・エヴァ』の本体はこのセリフ?(1分30秒前後)
「妻(の作るつまみ)が一番好き」監督の作家性、人間性、私生活のダダもれがエヴァ。

2.岡田さん動画は、下記リンクからお願いします。



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