【ぼくって…】親の観察 < 自己理解
先日、小学生息子に『痛みに鈍感』疑惑が浮上した。
乳幼児期を振り返り、感覚が敏感だったエピソードなら、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚、どの感覚にもある。ところが、鈍感だったエピソードは思いつかない。
印象が薄かったのか?
記憶から消えているのか?
出来事と鈍感が繋がっていないのか?
その日は突然やってきた
「ねぇママ、見て」
どうやら体を見てもらいたいようだ。どれどれ。
息子が指を差した箇所を見ると、一目瞭然で赤くなっている。
おかしい。どうした?
「痛かったみたい」
”みたい”?
”みたい”とは?
「分からなかったんだ」
「時間が経って「うーん……あれ?」と思って気づいた」
ほう。となると、今回は時間が経って気づけた、と。
(そうすると、時間が経っても気づけないことがあるということだね。つまり、気づかないで過ごしてしまったことが今まであるかもしれない、と(怖))
あ、今回は心当たりがある。あ!あの時ね、そっかそっか。
「う〜ん…ぼく痛みに鈍感みたい、ドンマちゃんほどじゃないけど」
!!!!!!!
そうか!それを鈍感というのか!
(これだから自分の国語辞典をつくるのが大切なのよね)
▽感覚鈍麻の”ドンマちゃん”
おわりに
親の観察より息子の自己理解の方が早かった。。。
真夏に周りが必死に声掛けして渋々水分補給するのは、”のどが渇く”という感覚が鈍いから必要性を感じにくい、のかもしれない。
これからは過敏だけでなく鈍感も意識しよう。
感覚を理解することはできないけれど、想像して、観察。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?