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半径5メートルの倖せ

 長引くコロナ禍の中ではあるが、今年も終戦の日を迎えた。

 これといった思想のない私だが、毎年8月15日にはスケジュールが合えば靖國に行って祈る。先の戦争で亡くなった全ての人種の全ての人に対して、感謝の意味を込めた祈りを捧げている。

 毎年この日は物凄く暑い日で、蝉が騒がしく鳴く中、多くの人が訪れており参道を歩くのがなかなか大変なのだが、今年は夕方近くだったこともあり、駐車場もスッと入れて割と過ごしやすく感じた。

 いつからなのかは覚えていないが、この終戦の日に靖國参拝をするというのが、私の中での一つの「けじめ」になっている。

 総理大臣や閣僚の参拝についてであるとか、A級戦犯の合祀の問題であるとか、極東軍事裁判に正当性があるのかとか、そもそも先の戦争自体の意義についてだとか、無論それぞれの事例について自分なりに考えることはあるが、ここに書き連ねのはそんな難しい話ではなく、年に一度心の中に浮かぶこんな思いでしかない。

 私が終戦の日に靖國に足を運び手を合わせる理由。今の世界を眺めた時に、小競り合いが多々あるにしても、基本的に日本を含む世界の国々の秩序は、先の戦争によって出来た秩序であって、同時にあの戦争によってもたらされた、非常の価値のある「平和」であるということ。戊辰戦争があって明治の近代日本が生まれたように、大東亜戦争があって今の平和な日本が生まれたと、私なりに理解をしている。

 あの戦争では、日本人が、朝鮮人が、中国人が、ロシア人が、アメリカ人が、イギリス人が、ドイツ人が、イタリア人が、色々な国の人たちが、自国のことを考え、時に世界のことを考え、いずれにしても各々の価値観に依て行動をして、皆が勘違いして、皆が血を流して、皆が倒れて。同じ人間同士が闘い、争っていた世界。それぞれがそれぞれの国、名誉、誇りのために、尊い生命を賭して、結果殉じていった。

 国籍に関わらず多くの人の尊い犠牲があって、今の平和な世の中があるのだろう。その尊さに日本人も韓国人もアメリカ人もない。先達が闘ってくれた結果、今の秩序がある。単純にその事実のみに敬意を表したい。そして、その敬意を表する表現手法の一つが私にとっては「靖國参拝」なのだ。

 戦争観に関しては個々の考え方や思いもあるので、この場でどうこう言うつもりは無いが、戦争にいいも悪いもない。そして勝者も敗者もない。話し合いがまとまらないから実力行動でかたをつけるという、非常に動物的な愚かな行為でしかない。人間とはそういう愚かな生き物なのだ。

 そんなことをしなければ平和が得られない。しかしそんなことをしたにもかかわらず、未だ銃声は止むことがなく、今日も命が奪われている。そんな今の時代を見ていると、先の戦争で亡くなった方たちに申し訳ないようにも思う。

 靖國神社の参道を本殿に向かい歩いていくと、愛国的政治的な思想を持った団体の人たちとすれ違う。そして署名運動やビラ配りなどをしている人がいる。正直に告白すれば、私は残念ながら彼らのような愛国心も政治的な思想もなく、一年のうちのほとんどは過去の戦争を振り返ることもなく、今、世の中で起こっている紛争に思いを馳せることすらほとんど無い。

 平和な世の中を享受しているにも関わらず、その経緯や現状を見ていない自分が恥ずかしい。目を無意識のうちに背けている自分が情けない。残念なことに私は世界に目を向けるよりも、自分の目の前に起こる出来事の方が遙かに重要だったりする。

 インターネットを手にしたことで、世界との距離が急速に近づいたと言うのは間違いないのだろうが、結局のところ私は自分の周り半径5メートルの倖せを守ることに精一杯なのだ。世界の平和情勢を考えるよりも、今夜はどこで誰と美味しいご飯を食べようか、ということの方が頭を占める毎日だ。

 だからこそ、この8月15日という日だけは、私の中でそういうことを考える日にしたいと思い、その一つの「けじめ」としての靖國神社へ足を運ぶのだ。

 一年のうち、たった一日ではあるが、考えることは無意味ではないと思い祈る。そして日々平和な中で生かされている事実を感謝して、日々争いの中で暮らしている人たちの平穏を祈る。そしてこの受け取った平和な日本が間違うことないよう、未来の子供達に正しい形でバトンを渡さなければという、その覚悟を新たにする一日でもある。

 靖國の英霊に。そして全世界全ての御霊に。心からの感謝を。

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