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「わたし」は、あなたからの贈り物。

もしも人生のベストアルバムを作るとしたら、Salyuの「青空」は絶対に欠かせない一曲になると思う。

2011年にリリースされたこの曲は、作詞・作曲をMr.Childrenの桜井和寿が担当している。彼らしい慈愛溢れる言葉たちが、伸びやかなSalyuの歌声に乗せてスッと心に入ってくる。中でも僕が好きなのは、大サビのこのフレーズ。

あなたを足さないとね 私はからっぽだってこと
知るたび 心は愛おしさに震えた

どうしようもなく誰かを求める気持ちが、いじらしいくらい素直に表現されていて、聴くたびに心の柔らかい部分が刺激される。サビ以外の歌詞も素敵で、本当に好きな曲ではあるのだけれど、「あなたがいないと私はからっぽ」というフレーズに、実は長いあいだ感動と疑いの両方を持っていた。確かにそれくらい相手を愛おしむ気持ちには共感できる。けれど、そこまで他人に自分を預けて良いものだろうか。他人はそこまで当てにできるのだろうかと。

リリースされてから10年近く、誰にも言えない複雑な気持ちを抱えながらこの曲と向き合ってきたわけだが、一昨年子どもが生まれ、ようやくこの歌詞が伝えようとしている感覚が理解できたような気がした。

子どもがいれば、当然自分の時間と労力は削られていく。最初はそれを苦しく思うことが多かった。理由もなく大泣きするのは日常茶飯事だし、夜中に何度も起きてオムツを変えなければならないし、離乳食が始まってからは食事の負担も増えた。妻のイライラも宥めてあげなければならない。ストレスフルな日々が続いたが、ある時期を境に、家族に身を割くことが自分自身への癒しになっていることに気づいた。同時に、頑なに守ってきた自分の縄張りというか、自己の輪郭みたいなものがぼやけていく感覚があった。家族で一つの系を成しているような感覚、といったらいいのだろうか。

人によってはその感覚に不安や嫌悪感を感じるかもしれない。でも、もともと我の強い僕にとっては、むしろ「これ以上僕が僕であることを一人で頑張らなくても良いんだ」と思えて、なんだか心が軽くなった。自分で自分を証明しなくても、相手との関係そのものが、きちんと自己を形作ってくれる。人として強くなったのか弱くなったのか、もはやわからないけれど、「あなたを足さないと 私はからっぽだ」という感覚、翻って「あなたを足すことで 私はからっぽでなくなる」という感覚が、心底理解できたのだった。

考えれば至極ありふれた話であるが、それに気づくまでに時間を要したのは、恐らく「自律した個」が成熟した人間であるという考え方が刷り込まれているからだと思う。

英文学研究者の小川公代さんによれば、現代の「自律した個」という考えの源泉は、西洋的な自己の捉え方にあるという。西洋では、他者に対して身を閉ざすことで、主体の固有性を確保し、他者とは異なるものとして自己を規定する。言い換えると、"私が私を所有する"という仕方で自己が打ち立てられるのだ。そこでは、所有と存在がほぼ同義になっている。この所有の概念が、土地・労働・財・家族へと拡張され、社会が発展していった。

しかし、自律した個の行き着く先は、徹底した個人主義と自己責任の世界であり、現代の息苦しさはまさにそこから来ている。小川さんは人びとを苦しめる自律した個というあり方に疑問を投げかけ、他者との関係性の中で自立性を守りながらも互いに配慮しあう<ケアの倫理>の大切さを訴える。硬直した自己を解きほぐす一例として引用された、哲学者の鷲田清一さんの一節が印象的だった。

<わたし>の独自性は、むしろ他者の存在との関係の中で、まるで贈り物のように届けられる、あるいは与えられるものではないだろうか。

鷲田清一「所有と固有」(小川公代『世界文学をケアで読み解く』内の引用)

「青空」の歌詞と根を同じくする考え方である。

誰もがオンリーワンでいたい、そんな自分を認めてほしいと心のどこかで思っている。だから日々さまざまに活動をし、発信をする。けれど、他人が見えすぎる時代は、自分が唯一無二の存在あることをなかなか信じさせてくれない。他人と自分を比べ、勝手に傷ついてしまう。そうなってしまうのは、やはりどこかで自律した個の感覚、自分を自分で所有する感覚を捨てきれないからではないだろうか。

いま僕が自己の輪郭にこだわりをなくし、安らかな気持ちでいるのは、この所有の感覚が家族との関係の中で解きほぐされているからだと思う。自己を手放し、代わりに贈り物として手元に届く自己を自分自身として受け入れることで、かえって自分らしくいられているような気がする。

「わたし」は誰かからの贈り物である。そう考えるだけで、周りの人がどうしようもなく尊い存在に思えてくる。


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