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そう、僕らは夜を越えてきた。古びたニュータウンが掘り起こす、身近で壮大なアイデンティティ。

映画「すべての夜を思いだす」の余韻がまだ消えない。

映画の舞台となるのは多摩ニュータウン。高齢化が進み、人もまばらな団地の中を、世代の異なる三人の女性たちが闊歩する。三者三様の事情を抱えて団地を彷徨うわけだが、そこで何が起こるわけでもない。いや、起こってはいるのだけれど、取り立てて何か起こったとも言い難い日常の些事が描かれていく。総じてミニマムで静謐なムードを持つ作品だが、その背後には実にダイナミックな想像力が横たわっていたように思う。一言で言えば、人類の営みに対する深い愛、みたいなものだろうか。

この作品は三人のエピソードが順番に描かれる構成になっている。後半に進むに従って少しずつ交わりを見せるのだが、基本的には三人が直接相対する場面はない。一人はハガキを頼りに知人宅を探し歩き、もう一人はガス検針の仕事の途中で徘徊老人を探し出す。会話や風景描写の余白が心地よく、それだけでも十分見応えがあったのだが、三番目の見上愛演じる萩野夏のパートで、夏が友人と一緒に縄文文化を展示する埋蔵文化財センターに足を運ぶ場面で新たな視点が挿入される。

夏は、土器や土偶に触れる中で、4000年以上前の人びとの暮らしに思いを馳せる。縄文時代に作られた鈴の音を聞く場面は特に印象的だった。今はいないけれど、確かに存在していたであろう人びとの記憶。物語に歴史的な視座が加わることで、現代の団地が古代の集落のように見え、そこでの人びとの営みがとても尊いものに思えてくる。団地の公園で踊る若者たちの姿が、太古の土偶たちの姿に重なって見える描写は見事だった。

思えば、この作品ではさまざまな形で記憶が描かれている。ハガキ、フィルムカメラ、VHSテープ…。ハガキを差し出した知人には会えず、亡くなった友人が撮影したフィルムに本人は写っておらず、ビデオに映る誰かの思い出は決して自分のものではない。三人の女性たちは、それぞれにこうした行き違いを経験するが、それがかえって記憶の中にいる人物たちを浮き彫りにさせる。誰かを想い、誰かに想われながら、僕らはみな長い夜を超えてきたのだ。きっと縄文人たちも。

誰もが生活を送り、やがて死んでいった。団地という現代の集落にロングスパンの時間軸を重ね合わせることで、今まで大きすぎて帰属意識を持てなかった「生活する人類」としてのアイデンティティがにわかに刺激された。古びたニュータウンから新しい「私たち」を立ち上げるこの作品の想像力は、これまでとは違った角度で社会をケアする可能性を秘めていると思う。

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