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何者かに変身したかった若者たちの「正しい老い方」|映画「仮面ライダー555 20th パラダイス・リゲインド」

迷いの中のヒーロー


2003年に放送されていた「仮面ライダー555」が20年ぶりにVシネとして帰ってきた。

555と書いてファイズと読む。「仮面ライダー555」は、夢を持たない青年・乾巧が、変身ツール・ファイズギアを用いて仮面ライダーファイズに変身し、怪人・オルフェノクと戦う物語だ。といっても、単なる勧善懲悪の話ではない。主人公を含めた3人の若者と、怪人ではありながらも人としての生き方を模索する別の3人の若者の、青春群像劇ともいえるドラマが展開される。6人の中で複雑に交差する恋愛感情、他者の思惑による妨害、すれ違い…。そこに、主人公自身が実は怪人だったという衝撃の展開も後半から加わっていく。正義と悪、ヒーローと怪人、正常と異常など、単純な二元論で断じることのできない人間の迷いと葛藤を繊細に描いた本作は、平成ライダー屈指の名作の一つに数えられている。

彼らの20年後を描いた今回のVシネでは、乾巧が敵の組織・スマートブレインの手先としてかつての仲間たちの前に姿を現すところから始まる。ファイズは携帯電話型のギアで変身するのだが、20年前はガラケーだったものがスマートフォンに進化していたことに時代の流れを感じた。草加雅人や海堂直也を始めとする仲間たちと敵対するかと思いきや、20年前と同じく、再び乾巧は戦う意味と自己の存在について問い始める。この逡巡こそがファイズのらしさである。「問いづつけることが答えだ」というセリフは、作品自体のテーマを象徴する名台詞だった。ヒロイン・園田真里との交わりを取り戻す中で、巧は再び仮面ライダーファイズに変身し、己が生き方を貫いていく。

巨大なシステムへの抵抗


評論家の宇野常寛は著書「リトル・ピープルの時代」(2011年)の中で、仮面ライダー555について詳しく論じている。

宇野の主張をざっくり要約すると、仮面ライダー555は、巨大で非人格的なシステムが一方的に個人の生を規定する時代における、若者のアイデンティティ不安を描いた作品だという。いまで言うところの「生きづらさ」を抱える若者たちによる「自分探し」の話と言い換えても良いかもしれない。本作の変身ベルトは誰でも装着・変身可能なアイテムであり、ベルトの奪い合いが物語の中心を占める。なぜならば、ライダーに変身できるベルトこそが、自らが何者かであることを証明する唯一の記号だからだ。実際ビジュアルの面でも、全身灰色で没個性的な怪人に対し、登場するライダーはどれも鮮やかな色彩を放っている。奇しくも、番組が放送された2003年のヒットソングは「世界に一つだけの花」だったが、ライダーの世界でもまさにオンリーワンを巡る戦いが繰り広げられていたのだ。

あれから20年。宇野が指摘し、仮面ライダー555の中で暗に示されていた巨大なシステムによる支配は、今もなお加速し続けている。見るもの・聞くものすべてがアルゴリズムに支配され、その中で個人は、見えすぎる他者の生活に焦りを感じ、スマホを片手に日々セルフプロデュースに勤しんでいる。ガラケーからスマホになってできることは格段に増えたが、そのぶん何もしていない自分の惨めさがいっそう突き刺さるようになった。

先述のとおり、2003年の本編では、敵の組織・スマートブレインはオルフェノクたちが支配していた。オルフェノクになった人間は実は短命で、その寿命を伸ばすために「オルフェノクの王」を探すことが組織の至上命題だったのだ。いずれにせよ、いつか朽ちゆく者たちがシステムを作っていたわけだが、今回のVシネではそれがアンドロイドにそれに取って代わられていた。機械は死なない。ゆえに、システムの支配は恒久的なものになる。つまり、かつてのように「敵を倒してハッピーエンド」という展開がない世界線なのだ。

ちなみに、Vシネの乾巧は一度システム側に救われている。延命の処置を受けている。だから一度はシステムの側に付き、海堂たちを掃討しようとする。乾はそれまでの自分を失ったように見える。

一方真里も、敵の謀略によって怪物と化し、巧とは違う形で自分を失ってしまう。自我を失った真里は巧にも牙を向けるが、巧の必死の呼びかけが真里の理性を呼び起こしていく。互いの心と体の交わりを取り戻すことで、二人とも自己を取り戻していくのだった。

ガラケーがスマホに勝つ瞬間

かつて若者だった彼らと今の彼らの違いは、20年に渡る「関係の履歴」だ。Vシネの冒頭では、二人が仲間から引き継いだクリーニング店を営む姿が描かれる。オルフェノクである海堂も、クリーニング店を勝手にラーメン屋に改修し、仲間のオルフェノクたちを働かせることで人間社会の中に溶け込もうとしていた。

この「関係の履歴」に注目したい。かつての若者たちは、何者かになるために変身ベルトを奪い合った。灰色の体を彩り、唯一無二の存在になるにはベルトという記号が必要だったのだ。それだけが、非人格的なシステムの中で自らの生を実感できる唯一の方法だった。しかし、時を経た彼らは、周囲の人物たちとの関係性の中ですでに自己を獲得しているように見える。これは想像でしかないのだが、日々交わる他者が、彼らとの暮らしが、20年の時間をかけて自己の何たるかを教えてくれたのだと思う。

象徴的なのは、物語のラストを飾るバトルシーンで、巧が旧型のファイズで勝利を収めたことだ。敵は最新型のスマートフォン。一方旧型はガラケーである。新型にはAIによる予測システムが内蔵されていたり、アプリによる武器の呼び出し機能もあり、圧倒的にスペックが高い。にも関わらず、ガラケーで変身した巧が、新型ライダーたちに勝利を収める。

新型スマホは一見ハイスペックだが、かつてと同じく交換可能な記号に過ぎない。実際、Vシネで初登場する仮面ライダーミューズは複数の人物が変身していた。しかし、巧が操るガラケーには20年の履歴が染み付いている。これまで多くの人物が変身してきたが、いまは巧の存在証明そのものともいえるアイテムに変化している。そう、年季が全く違うのだ。この古臭いガラケーが、主人公とその周囲の人物たちを、鮮やかにアイデンティファイしてくれる。

ここまで語っていた「関係の履歴」は、そのまま「老い」と言い換えても良いかもしれない。「ガラケーでスマホに勝つ」とは、結果的に形作られた唯一無二の自分を受け入れることであり、期せずして訪れる老いを受け入れることなのだ。仲間も老いていき、過去のような活力はないかもしれない。だが、そこには確かな関係性があり、幸福がある。

先述のように、敵の組織がアンドロイド化したことは、システムへの敗北を意味している。現実社会も同じで、もう逃げ場などどこにもないのだ。そんな世界では、各人の日常を生きることが一番の抵抗になるのではないか。このVシネも、仲間との食卓という日常風景で幕を閉じる。システムに内包されながらも、それに完全に侵されない私的な領域を育んでいくことが、20年後の仮面ライダーが見つけた新しい戦い方なのかもしれない。

正しい老い方


哲学者・谷川嘉浩らの著書「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる ―答えを急がず立ち止まる力」の中に、「イベント」としての日常と「エピソード」としての日常を論じる一節がある。ここでは詳しく引用しないが、後者には、「そこでしかあり得ない他者との関係」があるという。

若者たちは絶えず刺激的なイベントを求める。かつての変身ベルトの奪い合いはまさにイベント的といえる。しかし、イベントは彼らのアイデンティティを必ずしも保証してはくれない。一方、エピソードは刺激には乏しいが、自分が関係の網の目にたしかに編み込まれている安心感を育んでくれる。

長く生きれば生きるほど、人生にはイベントのほうが少ないことにどんどん気づいていくものだ。代わりに積み上げられていくのは、誰かとの何気ないエピソードのほうだったりする。それは時に退屈かもしれないが、エピソードを共にする誰かとの関係の履歴こそが、その人をその人たらしめていく。

30代も半を超え、自分自身が若者から徐々に遠ざかりつつあるから、いっそうそんなふうに感じることのかもしれない。「リトル・ピープルの時代」の中で宇野は終わりなき日常をどこか否定的に論じていたが、日常の中で幸福を感受できるようになることが、人としての成熟であり、正しく老いるということなのではないだろうか。今回のVシネは、ファンにはたまらない刺激的な内容だった。20年ぶりの新アイテム、新ライダー、そして巧による変身…。だが、個人的にはむしろ、刺激的ではない部分にこそ、この作品の魅力が溢れていたように思う。


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