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すでにファミレスは日本の郊外に欠かせない故郷の風景

すでに半世紀の歴史があり、思い出の場所である可能性も高い。初めての外食先がファミレスだった、初デートで行ったという人もいるだろう。ファミレスのあのチェーンの味が自分の原点、という人は今、たくさんいるのではないか。

(中略)

おいしいかおいしくないか、コスパがいいか悪いか、という次元ではない。すでにファミレスは日本の郊外に欠かせない故郷の風景の一つであり、思い出を産む大切な場所になっている。すっかり定着した、一つの文化なのである。

冒頭から引用文になってしまったし、ほぼ、この黒太字で、言いたいことは完全に言い尽くされているのだけど。

一昨日のnoteで

「最先端」でもない、「最後尾」でもない、中間のところにある大量の生産と、そこに黙々と従事する人たち。私の豊橋、小松さんのいわきのような、田舎でもない、都会でもない、ほどほどの郊外に住んでいる。それが、日本人の多数派なのだ。

と、書いた。

私が最近懸念しているのが、特に「食」の世界において、世の中が「最先端」と「最後尾」ばかりを見ている。都心の最先端か、田舎の自然の生活か、しかみておらず、中間が評価されていないと感じることだ。

その、まさに「中間」にあたるのが、ファミリーレストランだろう。

ファミリーレストランは、郊外の画一的なロードサイド風景として、概ね、批判的文脈で取り上げられることが多い。

しかし、冒頭、阿古さんの記事で投げかけている質問

すでに半世紀の歴史があり、思い出の場所である可能性も高い。初めての外食先がファミレスだった、初デートで行ったという人もいるだろう。ファミレスのあのチェーンの味が自分の原点、という人は今、たくさんいるのではないか。

のとおり、個人にとって固有の思い出が宿っている場所として成立している。

「 a family restaurant」ではなく「the family restaurant」

ファミリーレストラン、ファストフードにはたくさんの思い出がある。高校受験のあと、同じ塾の友達と一緒に寄った最寄り駅にあったミスタードーナツ。未だに「ハムタマゴ」を頼んだことまでありありと思い出せる。当時は飲茶もやってたよね。

高校の帰りに寄った、吉野家。未だにカウンターの作りが変わっていなくて、故郷に帰って、たまにその吉野家によると、20年以上経った今でも、高校時代の思い出がよみがえる。

それは、「吉野家 259号線南栄店」でなければだめなのだ。「吉野家新宿一丁目店」でも、あるいは、同じ豊橋でも「吉野家23号花田町店」ではダメだ。代替性は存在しない。

「吉野家 259号線南栄店」でなくてはだめで、なんなら、「この席」があるのだ。

ファミレスで言えば、豊橋にはデニーズがある。10年ほど前に改装して内装が変わってしまった。このデニーズにも「あの席」「あのテーブル」があって、Uの字カウンターになっているあの席で、若い頃にサークル活動の打合せをした思い出が、今でもありありと思い浮かぶ。

英語で言うならば

「 a family restaurant」ではなく「the family restaurant」がそこにあるのだ。

そして、ファミリーレストランで出るような料理、あるいは、先日の私の記事で紹介した、透明なフィルムに包まれてて、スーパーで1本100円とか200円くらいで並んでいる、工場で大量に作られたカマボコ、

どうしても、都会の技術を凝らした高級ガストロノミー料理や、自然豊かな場所で造られた手作りで自然にも身体にも優しい(とされる)自然派料理がもてはやされる中、ファミレスやスーパーで売ってる大量生産のカマボコのような「食」は、どうにも分が悪い。

なんだったら、最近は”エシカルな消費”という観点も注目される。そして、その観点からも、ロードサイド型の全国チェーン店や、あるいは、大量生産でスーパーで売られているような加工食品は、反面教師の立場に立たされがちだ。

自分の食べているものを批判されるのは、自分を批判されるのと同じ


東洋、そして日本には「医食同源」ということばがあり、「自分の身体は自分で食べたもので成り立っている」という厚い信仰がある。

そこに、エシカル消費が結びつくとどうなるか。

エシカルなものを食べている人の身体はエシカルで、エシカルでないものを食べている人の身体はエシカルではないということになる。

つまり、”エシカルでない食べ物”への批判は、食べ物への批判ではなく、個人の身体性という、どうやっても個人から引き剥がすことの出来ない、個人の生身の実存、尊厳への批判に繋がっていくのだ。

そして、美容でもファッションでも日用品でも電化製品でも食品でもなんでもジャンルは問わず、生産背景の透明性が高かったり、社会貢献度の高いブランドや製品って、ブランディング予算をかけてるから、高くなりがちなんだよね。

これは、都会のガストロノミー的な話ではなく、地方の自然豊かな手作り料理でもそう。こちらは手間暇がかかるし、山村は生活時間が必要、確かに、お湯を捻れば10分で沸くお風呂をわざわざ1時間かけて薪で沸かすのはエシカルではあるが、一般の人には「時間のコスト」が高すぎる。

つまり、最低限、お金か時間に余裕があり、都会か田舎かどちらかで、エシカルな商品に対する距離的物理的な距離が短いところにすんでいなければ、エシカルな消費が出来て、エシカルな食体験が出来て、自分の身体をエシカルなもので構成できないと言う状況になっている。

そして、都会でも田舎でもない、半端な5万人~20万人ぐらいの都市に住んでいる人の「郊外ロードサイド」のファミレスを積み重ねる「普通の生活」では、自分の身体をエシカルなもので構成することは難しい。

少し、ナーバスな議論かも知れないが、「エシカルな消費の礼賛」は、そういった商品に遠く、日常生活がありふれた大量生産品、全国チェーン、郊外ロードサイドストアで構成されている人々の身体実存を侵害することと、表裏一体なのだ。

だが、一見、ありふれた大量生産品、全国チェーン、郊外ロードサイドストアでも、「固有」の思い出があり、人として積み重ねてきた歴史があり、そこに身体的な記憶だって、個別に宿っている。そういう場所で「食体験」を積み重ねてきたことだって、個人にとってはかけがえのない「自分史」の一部であり、「自分」の一部なのだ。

もっと、そういう日常生活、そして、おそらくは多数派の日常生活が、もっと、評価され、尊厳があり、誇りがある、そんな社会でありたいと思う。

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