【マーラー】交響曲第2番(復活) 〜クロプシュトックの原詩を読んでみよう

「復活」の名前で有名なマーラーの「交響曲第2番」第5楽章では、歌のテキストとしてクロプシュトックの詩が使われています。

楽曲では、クロプシュトックの詩の言葉は一部分だけ(第1連目、第2連目)で、後半はマーラー自身が作詞したテキストなのですが、今回はクロプシュトックの原詩自体を読んでみたいと思います。

原詩のテキストと日本語訳

Die Auferstehung
Mel. Jesus Christus, unser Heiland, der den Tod überwand.

Auferstehn, ja, auferstehn wirst du,
Mein Staub, nach kurzer Ruh'.
Unsterblichs Leben
Wird, der dich schuf, dir geben.
Halleluja!

Wieder aufzublühn, werd ich gesät.
Der Herr der Ernte geht
Und sammelt Garben
Uns ein, uns ein, die starben.
Halleluja!

Tag des Danks, der Freudenthränen Tag,
Du meines Gottes Tag!
Wenn ich im Grabe
Genug geschlummert habe,
Erweckst du mich.

Wie den Träumenden wird's dann uns seyn!
Mit Jesu gehn wir ein
Zu seinen Freuden.
Der müden Pilger Leiden
Sind dann nicht mehr.

Ach, ins Allerheiligste führt mich
Mein Mittler dann, lebt' ich
Im Heiligthume
Zu seines Namens Ruhme.
Halleluja!

(Freiburger Anthologie - Gedichte http://freiburger-anthologie.ub.uni-freiburg.de/fa/fa.pl?cmd=gedichte&sub=show&noheader=1&add=&id=237)

復活 / フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック
「イエス・キリスト、死を越えた先にいるわたしたちの救世主」のメロディーで

復活する、そうあなたは復活するのだろう、
私の塵よ、つかの間の安らぎのあとで。
死ぬことのない命を
あなたを創造したものが、あなたに与えるだろう。
ハレルヤ!

再び花開くために、わたしは蒔かれる。
収穫の主が行き、
そしてを束にして集めるのだ
死んだわたしたちを。
ハレルヤ!

感謝の日よ、喜び哀しみの日よ、
ああ、わたしの神の日よ!
わたしがお墓で
よく眠っていたならば、
あなたはわたしを目覚めさせる。

なんと夢のようなことであろうか!
イエスと共にわたしたちは入り込むのだ、
彼の喜びへと。
疲れた巡礼者の苦しみは
もはやないのだ。

ああ、すべての聖なるものへと私を連れてくれる
わたしの仲介者が。わたし生きていたならば、
聖域のなかで
彼という名の賞讃によって。
ハレルヤ!

(訳:西原)

まず、全体をざっくり見てみよう

詩の全体を見てみると、こんな特徴が見つかると思います。

・5つの「連」に分かれている
・1つの連は5行で構成されている
・第1連・第2連・第5連は、最後の5行目が「Halleluja!」で締められている

ここからわかることは、「第1連・第2連・第5連」がひとまとまりになっていて、「第3連・第4連」が挿入されているような形になっていると言えるでしょう。

鳴り響く韻(脚韻)を知ろう

ドイツ文学では、伝統的な詩の形として、韻が響くように書かれます。

たとえば、第1連目の各行末の単語に注目してみると、以下のような単語が並んでいます。

du/Ruh’/Leben/geben/(Halleluja)

「duとRuh’」「Lebenとgeben」は、それぞれ母音以下の音がくり返し響くように聞こえます。これが韻(脚韻)です。最後の行のHallelujaは、かけ声や合いの手みたいな要素なので、今回は除外して考えています。

ほかのどの連を見ても、「1行目と2行目」「3行目と4行目」で韻を踏んでいますね。これが詩を読むときの、1つのヒントになります。(4連目の3、4行目は少し例外的ですが、のちほど説明します)

韻から読み解いてみよう 〜1連目

Auferstehn, ja, auferstehn wirst du,
Mein Staub, nach kurzer Ruh'.
Unsterblichs Leben
Wird, der dich schuf, dir geben.
Halleluja!

では、韻でつながれた単語を追ってみましょう。まず1連目を見てみると、「duとRuh’」「Lebenとgeben」が韻でつながれています。この連は、詩を普通に読んだだけでも、次のような意味です。

「短い安らぎ(Ruh’)のあとで、あなた(du)は復活する」
「死ぬことのない命(Leben)を、あなたに与える(geben)」

ですが、韻において重要な言葉が呼応することで、

「あなた(du)は安らぎ(Ruhe)のあとで、不死の命(Leben)を与えられる(geben)」つまり「安らぎ(=死)のあとで復活する」

という意味が、韻だけを追っても強く感じられるようになっています。

韻から読み解いてみよう 〜2連目

Wieder aufzublühn, werd ich gesät.
Der Herr der Ernte geht
Und sammelt Garben
Uns ein, uns ein, die starben.
Halleluja!

2連目は、「gesätとgeht」「Grabenとstarben」が韻でつながれています。

1行目が「わたしは種蒔かれた(gesät)」、2行目が「収穫の主が行く(geht)」となっています。gesätとgehtが呼応することで、「わたしは収穫の主によって種蒔かれた」ということが、文として明示されなくても、暗示されていると言えるでしょう。

3行目は「束(Garben)を集める」、4行目は「死んだ(starben)わたしたちの(束を集めてる)」となっています。

ここで問題なのは、「starbenの主語がなか」ですが、文章で読んでも、die starbenの「die」が、uns=わたしたちを指すのか、Garben=束(複数)を指すのか複雑なところです。通常で考えると、uns=わたしたちを主語として「わたしたちが死んだ」でしょう。「死ぬ(starben)」にふさわしい主語も、通常は人や動物です。

しかし、Garbenとstarbenが韻で結ばれると「束が死んだ」という意味が強くなります。そうすると、「わたしたち=Garben(束)」という意味が浮かび上がってくるでしょう。

「死んだわたしたちが、主によって集められてあの世に召され、再び花咲く(復活する)ために種として蒔かれる」

韻で結ばれることで、文の意味的な解釈だけではなく、音からも意味を感じ取れると思います。

韻から読み解いてみよう 〜3連目

Tag des Danks, der Freudenthränen Tag,
Du meines Gottes Tag!
Wenn ich im Grabe
Genug geschlummert habe,
Erweckst du mich.

3連目は、「TagとTag」「Grabeとhabe」が韻で結ばれています。

1行目、2行目の「Tag」ですが、これは同じ単語が置かれていて、特別な意味はあまりありません。ここでは、「感謝の日(Tag des Danks)」が「喜び哀しみの日(der Freudenthränen Tag)」であり、ひいては「わたしの神の日(meines Gottes Tag)」だと、くり返しています。これについては、最後に考えてみたいと思います。

3行目、4行目は韻のつながりで表現が広がっていることが感じられます。4行目のhabeは、geschlummert(まどろむ、眠る) habenで完了形をつくっています。Grabe(お墓)とgeschlummert habenが韻で結ばれていることで、文章の意味以上に、「わたしが死んで眠っている」ということが感じられるでしょう。

この詩の全体的に言えることですが、「死んでいる」ということが直接的には表現されていません。

第1連では、「Ruhe(安らぎ)」、第2連目では、「die Garben(束)がstarben(死んだ)」、第3連目では「im Grabe geschlummert haben(お墓の中で眠っている)」と表現されています。どれも直接「死んだわたしたち」と表現することなく、情景を描いています。

韻から読み解いてみよう 〜4連目

Wie den Träumenden wird's dann uns seyn!
Mit Jesu gehn wir ein
Zu seinen Freuden.
Der müden Pilger Leiden
Sind dann nicht mehr.

いよいよ、詩のクライマックスになってきました。4連目は「seyn(=sein)とein」「FreudenとLeiden」が韻で結ばれています。

2行目の「ein」はeingehen(入る、入り込む)という分離動詞の単語ですが、ein自体には「1つの」といった意味があります。

この部分の文章としては、「なんと夢(Träumenden)のようなことか/イエスと共にわたしたちは入り込む/喜びのなかへ」という内容です。しかし、einとseinが韻で呼応していて、わたしたちはもうイエスと1つになっている(Jesu und wir sind ein)のです。詩の言葉以上に、

「イエスとわたしたちが一体化していること」
「それは、なんと夢のようなことであるのか」

という情景が感じ取れます。

極めつけは3行目と4行目です。Freuden(喜び)とLeiden(苦しみ)が韻で結ばれていますが、よく見ると母音が似ているようで少し違います。

このような韻を「不純韻」と呼びますが、ここでははっきりと「喜びと苦しみは違うものだ」として描かれています。

詩の文章でも、「疲れた巡礼者の苦しみはもはやない」と言っていますが、韻の響きとしても、「苦しみ(Leiden)はなくなり、違う喜び(sein Freuden)にいるのだ」と感じ取れるのです。

韻から読み解いてみよう 〜5連目

Ach, ins Allerheiligste führt mich
Mein Mittler dann, lebt' ich
Im Heiligthume
Zu seines Namens Ruhme.
Halleluja!

さて、最後の連になりました。ここでは、「michとich」「Heiligthume(Heiligtume)とRuhme」が韻で結ばれています。

1行目のmichと2行目のichは以下のようにして対になる関係です。

「führt mich(わたしを連れて行ってくれる)」
「lebt'(lebte) ich(わたしが生きていたならば)」

響きが呼応していることで、よりこの構図が鮮明に浮かび上がってくると思います。

3行目のHeiligthumeについて、少し補足しましょう。

Heiligthume=Heiligtumの「tum」部分には、本来アクセントがありません。なので、本来であれば韻としての響きとしてあまり捉えることができません。

しかし、この詩全体のリズムを見ると、どの連においても、

・1行目が「強→弱→強→弱」のくり返し
・2〜4行目が「弱→強→弱→強」のくり返し

で書かれているので、詩として読んだときには、この3行目は「Im Heiligtume」(太字が強音)となり、本来アクセントがない部分も少し強く読まれやすいと考えられます。
(詩=Liedとは、本来「歌」としても意味もあり、リズムも解釈に重要な要素の1つとなります。くわしくは、またどこかで)

さて、3行目と4行目は、Heiligtum(聖域)とRuhme(賞讃、栄光)が韻で呼応しています。

Ruhmは、「名誉、栄光」などの意味がありますが、rühmen(称賛する、褒め讃える)やrufen(叫ぶ、大声を上げる)に近い言葉です。合唱でおなじみのミサ典礼文のGloriaは、ドイツ語訳で「Ehre」です。Ehreよりも具体性を持ったイメージのある言葉がRuhmだと言っていいかもしれません。

3行目、4行目は「彼の名の賞讃で聖域のなかで(生きていたならば)」と言っていますが、韻が呼応していることで、彼の名=イエスを賞讃し名を叫ぶことが、「聖域の中で生きる」ということにも感じられます。

讃歌としての「復活」 〜「感謝の日、喜び哀しみの日、神の日」とは?

クロプシュトックの「復活」は、題名のあとに

Mel. Jesus Christus, unser Heiland, der den Tod überwand.

の言葉が添えられています。

これは「メロディー:死を越えたわたしたちの救世主、イエス・キリスト」という意味です。

この詩は、讃歌の1つとして、「死を超えたわたしたちの救世主、イエス・キリスト」の曲につけられた詩です。

讃歌として考えたとき、3連目の

Tag des Danks, der Freudenthränen Tag,
Du meines Gottes Tag!

は、どういうことなのでしょうか? 振り返って考えてみれば、この部分の韻だけが同じTagのくり返しであることが、気になります。

Tagは全部で3回くり返されます。「感謝の日、喜び哀しみの日、わたしの神の日」と言ってるのは、すなわち「わたしたちが生きている毎日」ではないでしょうか。感謝の日とはすなわち教会で祈りを捧げる日、喜び哀しみの日とはすなわち生きる毎日、それらはすべて神の日であると。

この詩で言っているように、イエスを讃え、神を信じて毎日を生きていれば、最期死ぬときにはには苦しみも消え、喜びにあふれ、すべての聖なるものと1つになれるのです。

そして、死ぬことは終わりではなく、死んだわたしたちは、主によって種まかれ、再び花咲く(復活する)ことができる。だから、神を信じて毎日を生きなさい。

讃歌の言葉として、このように祈りを深める詩だったのではないでしょうか。







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