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【短編小説】冤罪

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この記事は全編無料で読めますが、もしよかったな、と思ったら私のビール代のサポートをいただけると大変うれしいです!
ですが、読んでいただけるだけでも死ぬほどうれしいので、この注意書きは読み終わるころには忘れていただいても構いません。
それでは、よろしくお願いします!
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「なぁ鴎外、ホラーとかミステリーとかでさ、サイコパスっぽい奴が人を殺すような話ってあるじゃん? あれ、犯人が狂った人として描かれてることが多いけど、なんか引っかかるんだよな。いっつもなんか引っかかるから純粋に楽しめない」
「そのボケ一生続けるつもりか? 森だからって文豪扱いすんのやめろ。それでなんだよ、なんか引っかかるって」
「なんだろうな、ああいうのの犯人ってさ、狂ってるようで狂ってなくないか?」
「そうか? 人を殺して笑ってたりするようなのは完全に狂ってるだろう」
「たしかに、たしかになあ。でも、そうじゃないんだよ。役者の演技の問題かなあ。ほら、狂人役の人って、いつも『私、狂ってます!』みたいな顔してるだろ? 笑顔の中にも少し目線の焦点がずれてたりさ。あれって、無意識だろうけど、本当は自分がヤバいことをしているって自覚があって、それを極度に自己正当化した顔にしか見えないんだよ。でも、冷静に考えたら、もっとヤバいパターンがあり得るよな。つまり、もはや自分がヤバいことをしているっていう自覚すらない奴。そういう奴のほうがヤバくない? そうすると、そういう奴の顔って、至極冷静だったり、純粋に楽しんでたりすると思うんだよね」
「うーん、そういうもんかなあ。でも実例見てみないとわかんねえわ」
「いるだろ。あそこに」
「あーたしかに。れいくんちゃんな。いつかちゃんと話聞けたらいいな」

     ★

 私の人生において、姫などという存在が登場したことは一度もない。ただの一度もだ。あるとすれば、世界的人気ゲーム『すっごい真理男』シリーズに出てくる桃姫のような空想上の存在か、櫛名田比売のような歴史上の(あるいは神話上の)人物くらなものだ。現実の世界にも、「オタサーの姫」という役職があるらしいことは噂に聞いたことがあるものの、実際にそのような役職に就いている人を見たことはない。だから、客から「あんたはこの店の看板娘、というより姫だね! よっ、看板姫!」と言われたとき、具体的にどういうニュアンスが含まれているのかがよくわからなかった。 
 そもそも姫とはどういう存在なのか。職場の更衣室でスマホを片手に検索してみる。
「高い身分の女子。後宮の婦人。貴人の娘。また、婦人に対する美称」
「1. 女性に対する美称。2. 身分の高い人の子で、未婚の女性」
 小声で読み上げる。結局のところ、基本的には身分の高そうな雰囲気と、未婚である女性に対して使われることが多いようだ。私は未婚に見えるだろうし、女性にも見えるだろうから、そこまでは問題ない。だが、身分が高そうに見えているのだろうか。それは世間知らず、仕事はすべて人任せ、みたいな印象の裏返しだったりするのだろうか。
 休憩を終え、バーカウンターに戻る。私は昭和の雰囲気を未だに残している古き良き居酒屋で働いている。もう令和になって10年以上経って、新宿の思い出横丁や吉祥寺のハモニカ横丁のような、昭和の香りが漂う場所はかなり減っている。そういったところに代わって増えているのは、「これぞ令和スタイル」と言わんばかりの、IoTの溢れた場所だ。居酒屋といっても店員の姿はなく、専用のARメガネを装着することでメニューが起動し、まさに目の前にあるかのように感じながら操作ができる。だが、実際はデータなので、メニューをタッチすると、紙では到底書ききれないほどの詳細情報が閲覧可能だ。注文ボタンを押せば、データが厨房の電子レンジまで届き、必要な材料が自動で放り込まれてされて調理がスタートする。今や電子レンジに作れない料理などない。どういう原理かは知らないが、冷たい料理でさえ、電子レンジで作れてしまう。そうして作られた料理は、レンジからベルトコンベアに乗って自席まで届けられる。会計は、ARメガネ装着時に入力したマイナンバーに紐づけられ、自動的に決済が完了する仕組みになっている。キャッシュレスというか、会計という手続きすらもはや不要なのだ。
 しかも、客が希望すれば、ARメガネは店員さんを投影してくれる。アニメ調の美少年ないし美少女もできれば、広瀬すずのような現実の人物も投影可能だ。
 時代はそこまで動いているにも関わらず、ここ「新宿レオン」は、未だに昭和の雰囲気を残している。まだ人が料理し、人が給仕している。男性店員は洋装、女性店員は和装だ。昭和感があまりにも典型的なため、今は「太宰治が通ったと言われても納得の店」として人気を博している。もちろん、太宰がここに訪れたことなどない。この店ができたのは2008年だ。なんなら昭和の店ですらない。
 私を姫と呼んだ客は、1人で静かにウイスキーをちびちびと飲んでいる。飲むたびに彼は苦い顔をしている。あまり好きではないのだろうか。1人で飲んでいるのに、わざわざ好みじゃないお酒を飲むなんて。変な人。
「姫さんよ、あんたはどうしてここで働いてるんだい」
「ちょっと、姫さんなんてやめてくださいよ。恥ずかしいじゃない。私、もうそんな歳じゃないのよ」
「はは、すまないね。すごく姫っぽくてついな。ちゃんと平野って名前があるんだからそっちで呼ばないと失礼だな。それで平野さん、最初の質問には答えてくれないの?」
「そうねぇ、あなたがあの100万回生きた猫ちゃんを連れてきてくれたら教えてあげる」
「それで何人の男を振ってきたんだ」
 そう彼は楽しそうに笑った。
「じゃあ今度持ってくるよ」
「あの絵本を持ってきたって駄目よ。ちゃんと生きた猫じゃないと」
「やっぱりあんたはお姫さんだ」
「どういう意味よ」
「いやなに、あんたはなんというか、俗世からかけ離れているというか、おれら人間とは1つずれた世界で生きていそうな気がするってだけだ。酔っ払いの戯言だよ。じゃあな」
 そういうと彼はウイスキーを半分ほど残したまま帰った。彼がどこに住んでいるのかは知らないが、終電がなくなるような時間ではない。

     ★

 翌日も、彼は来た。その翌日も、そのまた翌日も。毎回、ウイスキーを半分ほどだけ飲んで帰る。そして毎回、私と軽く言葉を交わしてから帰る。会話に全く勢いや圧がないあたり、私に気があって来ているというわけでもないようだった。だが、それでも店長からはいつもにやにやされる。
 ある日、どうしても気になったのでつい訊いてしまった。
「お客さん、どうして毎日来てくれるの? うれしいけど、毎回ウイスキーを半分しか飲まないんだもの。気になるな」
「そうだよな。気になって然るべきだ。だがな、話すにはちと酒が足りねえな」
「何よ、じゃあ自分の好きなお酒を飲めばいいじゃない」
「ははは、それもまた正論だな。言い返せないよそりゃ。お手上げだ。でも、駄目なんだ」
 どうやら並々ならぬ、いや、変なこだわりがあるらしい。私はそういう変わった人が好きだった。本人なりに合理的に考えているのだけど、結論が人とは違ってしまう。天才か変態のどっちか。そういう人の話を聞くのが好きだった。
「そういわれるとなんだか気になっちゃうわ。私をそういう気にさせようとしているのかしら。すごく悔しいけど、乗っかってあげる。だからもうちょと飲んでみてよ」
「おお、姫が釣れたぞ。さしずめマーメイドってとこか。あんた、こんな簡単な焦らしに負けるとはね。仕方ない。姫が釣れたのに、すぐに水に返してこっちも帰るってんじゃ男がすたるってもんだ。今日はもうちょい頑張って酔っぱらうかな。平野さん、あんた、話は長くなるけどいいかい」
「受けて立つわよ」
 彼はウイスキーの残り半分をぐいと飲み干し、追加のウイスキーを注文してから話し始めた。

     ★

 去年(2030年)は、ワールドカップの年だった。2002年の日韓以来の、ウルグアイ、パラグアイ、アルゼンチン、チリの4か国による共催大会だった。おれと裕介は、2人でわざわざ現地まで観にきていた。今やVR試合観戦が日常化しているとはいっても、やはりVRと生じゃ情報量がまるで違う。裕介は、できれば生で観たいということで、生観戦チケットの抽選に申し込んでいた。チケットが取れたとき、裕介は大騒ぎしていた。
「絶対おまえとは行かないからな! おれは彼女と行く! 当日までに彼女を作って一緒に行く!」
 おれたちは、結婚はおろか、彼女すらできない日々を過ごしていた。当時は20代の半ばくらいだったため、結婚していないこと自体は全く珍しくなかったが、周囲の友人たちがどんどん結婚していく様を見て焦りを覚え始めるタイミングでもあった。
 試合開始直前、おれたちは客席で話していた。なぜおれが裕介と一緒に来てたかって?推して知るべし。そういうことだ。
「本当は彼女と来たかった」
「今日はユイちゃんどうしたの?」
「えーっと、家で寝てるよ。ワールドカップとか興味ないって」
「せっかく彼氏が当ててくれたチケット無駄にするほど興味ないのかよ」
「えっとねー、ほら、ユイだっけ。ユイはほら、インドアだから」
「おい裕介、おまえの彼女って設定なんだから聞き直すなよ」
 いつもこんな会話ばかりしている。会話の中で、ふとした時に急に寸劇を始める。勝手に設定を作って話すのは、案外楽しいものだ。
 独り身ならではのノリだ。これにハマると彼女ができなくなる気がするが、楽しいのだから仕方がない。
「鴎外、おまえこそ彼女できたの?」
「森だからって文豪扱いすんのやめろ。そしてできない。この前断っちゃった」
「え、誰を?」
「いつか話したっけ。大学の同級生。大学出てしばらく経ってから急に連絡が来てさ、久しぶりに会おうよって言われた」
「あー聞いたような。んで、それと誰? 1週間で2人ふったっていうのは」
「1人だわうるせえな。今更もういいだろ」
 2人で爆笑する。ちなみに1週間のうちに2人ふったことがあるのは事実だ。たまたまだったのだが、「1週間で2人ふった男」というフレーズがキャッチーすぎたせいか、ずっとこうやっていじられている。
「そっか、今回は1人だけか。なんでふったの?」
「友達感が抜けなくてな。キス迫られたときに違うなって思った」
「クズかよ」
 そしてまた爆笑。
 会うたび、こういう会話ばかりしている。裕介とは中学1年生以来の仲で、高校も一緒、大学であいつが地方の国立大学に行った時には、旅行であいつの家に遊びにも行った。
 就職活動を機に東京に戻ってきた裕介は、今は鉄道会社で経理を担当している。一応数字に強いというのが配属理由だったようだが、あいつ自身は簿記も持っていない。
「ねえきいてきいてきいてきいて」
 愚痴が始まる合図だ。嫌がる余地はない。
「いつものクソ上司がまたやってくれたよ。一昨日会議があってさ、いつものようにクソ上司がさ」
「おい、選手入場だぞ! うわーついに来たな!」
 嫌がる余地はないが、試合開始の時間なのだから仕方がないだろう。裕介だって、試合中にまで愚痴る気はないはずだ。そう思いながら、おれは彼の言葉を遮ってみた。予想通り、彼は「おおっ!?」と言ってグラウンドに目を向けた。今日は開幕戦だ。今大会の開催国で、第1回大会の優勝国でもあるウルグアイと、運悪く同じグループになってしまった日本の試合だ。こんなメモリアルマッチのチケットを当てるとは、裕介は今後一生分の運を使い果たしたに違いない。
「久保、中井の2人が一番良い時期だし、今年こそ日本代表にはベスト8進出してもらいたいよな」
 大してサッカーに詳しくもないおれがギリギリの知識で話すと、裕介は大きくうなずいた。会場の熱気は最高潮に達している。全員が立ち上がって、応援歌を歌ったり、大声で選手を呼んだりしていた。必然的に、すぐ隣にいるおれたちも大声で話さざるを得ない。
「まったくだ。でも、今日は他にも注目する選手がいるんだよ! まだ若いんだけど――」







――الله أكبر――







 気が付くと、おれは客席に倒れ込んでいた。頭が痛い。激しい耳鳴りもする。周囲の音がうまく聞こえない。目もよく見えない。体が重い。
 徐々に、頭だけでなく体中が痛んできた。右手で頭を抱えようとしたが、うまく動かない。動かそうとすると激痛が走る。
「あ……っ……」
 声もうまく出ないようだった。
 少しずつ視界が明瞭になっていくのに合わせ、いろいろなものが見えてきた。周りの人は全員倒れていた。ついさっきまで全員立ち上がって大声を出していたというのに。おれと同じように苦しそうにもぞもぞと動いているか、あるいは全く動かないかのどちらかだ。もはやがらくたと化している。そこではたと気がついた。裕介はどうしたんだ。
 それこそ、体が重い理由だった。彼はおれの下半身に覆い被さる形で、うつ伏せで倒れていた。
「おい、裕介! おい!」
 もう声は出るようになっていた。だが裕介は動かない。
「なんだこれ! どうなってんだ! おい、裕介! しっかりしろ! って、えっ」
 余りの恐ろしさに、つい裕介を蹴り出してしまった。彼の顎が、ない。
 蹴り出された裕介は、そのままずるりと地面に落ちた。

     ★

 彼は話をやめ、すまない、と謝ってきた。
 私は、この話の展開がわかる気がした。物語の世界なら、順当にいけば、あれが来る。
「要するに、裕介は死んだんだ」
 やっぱり。こんなの、小説だったらもう読むのをやめている。展開が陳腐すぎる。
「あはは、やっぱりあんた、姫だねえ。つまんないって顔してやがる。すまない、おれには人を驚かせるような意外な展開の話を語ることはできない。実際の話ならなおさらだ」
「ほんとうね」
「裕介ならな、あいつは何でも語ってくれた。古今東西のありとあらゆる話を。真実もウソもひっくるめてね」
「でも、現実の話だっていうなら先が気になるわ。その後どうしたの」
「もうおしまいだよ。おれは再び気絶した。そして気づいたらもう日本の病院のベッドの上で、家族が横で寝ていた。看病し疲れたってかんじだった。とっくに裕介の葬儀は終わっていて、おれはそれにすら行けなかったってわけだ」
「そう。じゃあ、その時は何があったの? 後で人から話を聞いたりはしたでしょう」
「なんだ、知らねえってのか? 世間に興味なさすぎじゃ……いや、まぁそうか。仕方ない。教えてやるよ。テロだよ。自爆テロ。とっくに滅んでなくなっていたと思ったISISの残党みたいな奴らが、ワールドカップを機に一斉に活動を再開したんだ。その第一弾がワールドカップの開幕戦、おれたちがいたあのスタジアムってわけ。おれたちは、爆発した奴のすぐ近くにいたんだ。ほんと、第4次産業革命が終わっても、政治は、人類は、なんも変わりゃしねえな」
 ん?
「そうなの……。よく助かったわね」
「そうだな、それがおれの不幸中の幸いというべきかなんというか……。裕介が庇ってくれてたみたいなんだ」
「どういうこと?」
「あいつ、おれの下半身に覆い被さってたって話しただろう? それって不自然な体制だったらしいんだよ。後でよく調べてみたら、テロの犯人は、おれたちの左後ろで爆発したんだが、おれたちだけは右前に飛ばず、右後ろに飛んでいた。他の客はみんな前に飛んでたよ。後ろの席だった奴が近くにゴロゴロ転がっていたからな。どうもあいつ、爆発の瞬間に気づいて、おれを突き飛ばそうとしたみたいなんだ。あいつの右腕はおれの腹のあたりにあったしな。おかげでおれは、本来よりも傷が少なく済んで、九死に一生を得たってわけだ。それでも、全身で傷だらけだったし、ご覧の通り右手は義手になったし、左耳は全く聞こえなくなった。おれが病院で目覚めた時っていうのは、事件が起きてから丸5日くらい経った後だったらしい」
 そう言われて思いだしたが、彼はいつも左足を引きずるように歩いていた気がする。それに、左手の薬指の第一関節から先がない。今申告されなかった部分にもたくさん傷を負ったのだろう。
「それはそうと平野さん、あんた、なんでこのテロのことを知らないんだい。東日本大震災の時かそれ以上に報道されたし、今だってことあるごとにテレビでやってるじゃないか」
「私、テレビなんて観ないのよ。なんだかおもしろくないじゃない」
「ほんとにそれだけか」
「疑い深い男はいやよ」
「そうだな、すまない」
 それから、しばらく黙ったままでいた。彼はなぜそれを聞いてきたのだろう。いや、それほど有名な事件ならば気になって当然かもしれない。でも、私はさっき感じた疑問が拭えずにいた。訊いて良いのかわからなかった。
 それに、もっと訊きたいことがあった。
 いつものようにさっさと帰ってしまえば訊けずに済むのに、今日の彼は一向に帰る気配がなかった。ならば訊いてみても良いだろうか。そんな思案をしているうちに、彼の方から話しかけてきた。
「姫さん、何か聞きたそうな顔だね」
 彼から話を振ってきたのだ。訊いてしまっても良いのだろう。私は、気になっている方から順番に訊いてみることにした。
「だから姫じゃないってば。そうね、訊いていいのか、というか、確認していいのかわからないのだけど、どうしてさっきの話がうちに来る理由になるの」

     ★

「それ、聞きたい? 大丈夫?」
 何が大丈夫なのだろうか。よくわからない。
「何よ脅しみたいに。構わないわよ」
「そうか。じゃあ覚悟を決めて訊こう。人を殺すって、どんな気持ちなんだ?」
「えっ」
 あまりにも急な話につい声が漏れた。
「どんな気持ちなんでしょうね。私は殺したことないからわかんないけど、すごく夢中なんじゃないかしらね。よくわからないけど」
「そうだな、そうだよな。ああ。そう答えるよな。情けない話だが、あいつが死んでからおれはずっと引きこもっていた。仕事もやめて。会社もさすがに同情してくれたが、いろいろあって制度上休職扱いにはできなかったそうだ」
 また何を話し出したのだろう。人に話をするときは結論からって、常識じゃないのかな。
「その間、おれはずっと考えていた。なんであいつは死んで、おれは生き延びたのか。だが、答えは一向に出る気配がなくて、ずっと、ずっと考えていた。だって、どう考えてもたまたまなんだぜ。生きるか死ぬかの分かれ道。それは、おれが、あいつの右にいたか左にいたかっていう、たったそれだけの差だったんだ。そんなところに意味なんてあるわけないじゃないか」
 彼の弁舌は徐々に熱を帯びてきていた。
「それで、この店に来てみた。裕介と一緒に南米に行く直前に来た店なんだ。あいつとの日本での最後の思い出の場所。そこであいつがずっと飲んでたウイスキーを飲んだら、何かわかるんじゃないかって。もう藁にも縋る思いだよ。何か、何か意味をくれって。でも、現実って厳しいもんだよな。ここに来れば来るほど、意味なんかあるわけないって思えてきちまう。彼女ができないって嘆いてたあいつとか、上司の愚痴を言うあいつとか、そういう顔ばっかり浮かんできて、じゃあなんで死ななきゃいけなかったんだってとこがずっとわからない」
 わからない。
「そう。それが理由なのね。でも、私にはあまりよくわからないわ。どうして人が死ぬのに意味がなくちゃいけないの?」
 彼は、氷の溶け切ったウイスキーを飲み干し、またおかわりと注文してから答えた。
「そこだ。確かに、おれはあいつと一緒に来たこの店に、あいつの死んだ意味を探すために通った。だが、ここに通う理由はそれだけじゃないんだ。正直、死ぬ意味なんて、頭のどっかではわかってんだ。人に殺されなくたって、寿命で死ぬのだって同じだからな。別に今寿命が来なくたっていいじゃんか、なんて言い出したところで、意味なんてありゃしない。人が死ぬのはあくまで現象であって、海辺に行ったら風が強くなるのと同じだ。原因は説明できても、意味はない。あとは、その事実をおれが受け入れられるかどうかってだけなんだ」
「そうね。私もそう思うわ。それでなによ、別の理由って。まどろっこしいったらありゃしないわ。はっきりものを言わない男は嫌われるわよ」
「最初からちゃんと言っているじゃないか。だから、人を殺すってのがどんな気持ちなのかを訊きに来たんだって。徐々に裕介がいなくなった事実だけは受け入れられるようになって、気持ちが落ち着いてきたときに思ったんだ。おれはこんなに苦しい思いをしている。あの日死んだのは裕介だけじゃない。あの一瞬に死んだのは結局27人もいた。そいつらの友達とか家族とか、そういう人たちがみんなおれと同じ気持ちを抱いている。そんな、こんな悲しい思いを強制してまで、犯人は何がしたかったんだろうって。人を殺すことに対して、どんな気持ちを抱いているんだろうって」
 気持ちはなんとなくわかる。おそらく、友が死んだ意味をそちらに求め始めたのだろう。だがなぜそれを私に訊くのだろう。彼は私のことを人殺しだと思っているのだろうか。
「失礼しちゃうわ。私にわかるわけないでしょう」
 至極落ち着いた素振りで、やれやれ、と言わんばかりの表情で、彼は言った。
「わかると思って訊いてるんだけどなあ。あんた、経験者だろう」
「そんなわけないでしょう。だったらどうして私はここで呑気に働いていられるのよ。人を殺すなんてありえないわ」
「ふむ。そうか。なら仕方ない」
 そう言って、彼はまた黙ってしまった。人を人殺し呼ばわりしておいて、そんなわけないと否定すればすぐに黙ってしまう。本当に変な人だ。これ以上粘着されるなら退店してもらうほかなくなる。残念なことに、今は他に客がいないので「他のお客様のご迷惑となりますので」戦法は使えない。どうしたものか。
 どうやって帰ってもらおうかと思案しているうちに、また彼が話し始めた。
「手相ってさ、確か左手が先天的なものだったっけか。ちょっと見せてよ」
 また話が飛んだ。聞きにくい話し方をするものだ。そう思って彼を見ると、なんとなく目が据わっているように見えた。既に酔っ払っているらしい。確かに、苦手なウイスキーをもう4杯ほど飲んでいる。
「あら、酔ってるの? もしかして顔にはあまり出ないタイプ?」
「酔ってなんかねえぞ。おれはまだまだだ」
 急に微笑ましいくらいへろへろになる彼がなんだか可笑しく思えてきた。さっきまでの話も酔っ払いの戯言なんだろうか。それなら大目に見ようかと、とりあえず左手を差し出してみた。
「おう、素直に見せてくれんじゃねえか。なんだ姫さん、生命線みじけえな!」
「いいのよ私は。長生きには興味ないもの」
「そうかいそうかい。じゃあ右手も見せてくれよ。右手は後天的なものもまるっと反映されていて、今、どんなかんじなのかがわかるんだとさ。正直そっちの方が見る価値があると思わないか」
「いやよ」
「どうして? 左手はあんなに素直に見せてくれたのに。なんで右手はダメなんだ?」
「今の私が洗いざらい知られちゃうってことでしょう? 恥ずかしいわよ」
「そうかい。恥ずかしい……よく言い換えたもんだなあ。本当はあれだろう? もっと物理的に見せられない理由があるんだろう? 例えばほら、すげえ火傷してるとか」
 心臓がドクンと響く。彼に聞こえたのではないかと思えるほどに大きな鼓動だ。私はなぜこんなにドキドキしているのだろう。
「それになあ、ばれちゃうもんなあ。性転換したのも。なあ?」
 また心臓が高鳴る。明らかにネガティブな方向に感情に揺られていく。どうして? 隠していたとはいえ、火傷や性転換がばれたところで、恥ずかしい以外の気持ちが湧いてくるはずがないのに。
「でも不思議なのはさ、やっぱり名前だよな。偽名を使うにしても、なんでわざわざ『平野(へいの)』なんだ? もしかして好きだったのか?」
 そこからのことは、あまり覚えていない。

 だが、これだけは言える。私は、誰も殺してない。


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最後までお読みいただきありがとうございました!

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