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【短編小説】満願成就

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ですが、読んでいただけるだけでも死ぬほどうれしいので、この注意書きは読み終わるころには忘れていただいても構いません。
それでは、よろしくお願いします!
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 若いころのトラウマほど、消えにくいものはない。若ければ若いほど、小さなことで人は傷つき、そしてその記憶を抱えながら生きていく。いつか大人になって、時間が流れることで忘れてしまうものもたくさんあるだろう。大人になるにつれて様々なことを経験し、そして過去のトラウマを乗り越えることもあるだろう。しかし、そのどちらもできないタイプのトラウマもある。これを忘れたり、乗り越えたりするには、並大抵の努力では足りない。もっと大きなもの、決定的なものが必要だ。私は、その方法をずっとさがしていた。

   ●

 4月30日にしてはよく乾燥した日だった。平成最後の日にふさわしい、良く晴れた日である。肩のあたりで切りそろえられた髪が少したなびいていた。超大型の10連休の3日目。周囲の家はみな旅行に出かけているらしい。まだ20時を少し回ったところだが、ほとんどの家の電気が消えている。私の両親も2人で伊勢神宮へ旅行に出かけている。私は友人からの誘いをすべて断ったうえで、実家に帰ってきた。

 私は粛々と作業を進めた。庭で薪を組んで、着火剤に火をつける。火は徐々に大きくなり、大きくなるたびにさらに薪を追加する。これを何回か繰り返したところで火はどんどん大きくなった。今日は絶好の焚火日和だ。大きく燃え上がった炎はとても明るく、そして熱く感じた。とりあえず準備は完了した。私は焚火の横で、持参したものを一つずつ取り出した。

   ●

「自分らしく」
 これは私が子供のころからよく言われてきた言葉だ。自分らしく生きようとか、自分らしい服装とかなんとか。「自分らしく」という言葉は使われなくても、「自分のやりたいことをしよう」などと、本質的には同じような言葉が私の周りにはたくさん転がっていた。まさしく、掃いて捨てるほどだ。自分らしさとは何なのだろうか。
 小学6年生のころ、「私の宝物」を発表する会があった。作文をして、それをみんなの前で読み上げる形式だ。
「どんなものでもいいよ。自分らしい宝物を選んでくださいね」
 先生にこう言われたことは覚えているが、結局私が何の話をしたのかは覚えていない。みんな、友達とか、初めて買ってもらったサッカーボールとか、そういうことを話していた。
「初めてのサッカーボールですか。いいですね。発表してくれた子に、みんなで自分なりの感想を言いましょう」
「はい! とても昭くんらしくていいと思いました!」
「はい。初めて買ってもらったらうれしいので、いいなと思いました」
「そうですね。では発表してくれた子に拍手しましょう」

 ぱちぱちぱちぱち。

 こんな流れで発表は進んでいった。
 とある子がアニメのキャラクターのぬいぐるみを宝物として挙げていた。このキャラクターが好きで、誕生日に買ってもらって、だから好きです。宝物です。確かそんな内容だった。私は自分らしく、素直に言った。
「ちょっと子供っぽいし、宝物って、もっと一生大切にするようなものだと思う。でも、本当にそれを一生大切にするのかわかりません。なので宝物とは違うと思います」
 宝物というのは、例えば麦わら帽子のことだ。命の恩人から預かって、絶対に返さなければならない、唯一無二のもの。その辺で買えるものではない。
 初めて買ってもらったサッカーボールは、ボロボロになるまで蹴り続けて、どうしても使えなくなったら記念にしまっておくだろう。そして、時々眺めて初心を思い出す。
 友達はそもそも替えが利かない。その人は1人しかいないのだから、大切にする。せっかく私と仲良くしてくれるのだ。ありがたいことこの上ない。
 でも、その子のぬいぐるみは、話を聞く限りは最近の誕生日に買ってもらったもので、命の恩人からもらったわけでも、自分の努力の証になるものでもない。そう思っての発言だった。しかし、誰もそんな私の気持ちを理解してくれなかった。
「ひどい!」
「なんでそんなこと言うの!」
「謝れ!」
「侮辱!」
 発表した女の子は泣き出している。何が悪かったのか。私は先生に言われた通り、自分らしく、自分の思ったことを言っただけなのだ。だが、本人からのみならず、クラス全員から反発を食らってしまった。しまいには先生まで「なんてことを言うんだ」と怒り出す始末。私は泣いて反省の弁を述べなければならなかった。「ごめんなさい。私がいけなかった」私が、自分らしく発言なんかしたから。
 私は自分らしくあろうとした。それは正しい。その結果、私は相手が嫌がることを言った。それは正しくない。正しいのに正しくない。
 義憤に満ちた表情で「侮辱!」と叫んだ男の子の顔がいまだに忘れられない。

   ●

 そんなことを思い出しながら、なぜ私はあの男の子ばかりが印象に残っているのだろうかと考えていた。当時私を非難したのは彼だけではない。また、彼と特別に仲が良かったとか、逆に悪かったとかいうこともない。普通のクラスメイトとして接していたように思う。特別に仲が良かったというわけでもない。そう考えたとき、胸がちくりと痛むのを感じた。その後、彼の姿が脳裏にいくつも蘇ってきた。
 楽しそうにサッカーボールを追いかける彼。
 運動会の徒競走で1位の表彰台に登る彼。
 授業を真面目に受ける彼。
 我慢できずにウトウトする彼。
 これはと思った。当時は全く自覚していなかったが、私は彼のことが好きだったのではないか。もちろん、告白などしたわけがない。胸の内にずっと秘めていて、そしてそのまま捻り潰したのだった。だから、「侮辱!」だけがずっと記憶に鮮明に残っているのだろう。
 小学校の卒業アルバムを捲り、全てのページから私の姿だけを切り取ったことを確認する。そして、まずはアルバムを炎に投げ入れた。表紙は、みんなでそれぞれに作ったクロスステッチが巻かれている。全く絵が描けない私に、クロスステッチなどできようはずもなかった。誰かに手伝ってほしかったが、
「自分の一生の思い出になるんだ。自分の手で完成させなきゃ意味がない」
と先生に言われてしまったので、しぶしぶ自分で作った。みんな、サッカー少年とサッカーボールとゴールというように、いくつかの絵を完成させていた。
「自分らしい、好きな絵を描けばいい」
 そう言われたみんなは、自分の姿や好きなものを描き、それをクロスステッチで表現した。私は自分の好きなものの絵など描いたことがなかった。まして、それを鉛筆ではなく、糸で布に表現していかなければならないなんて、全く無理な話だった。そもそも、当時の私の好きなものといえば演劇だった。舞台と、きれいな衣装を纏ったお姫様と、彼女を迎えに来てくれる王子様。そんな絵が描ければよかったのだが、まず人の絵すら描けない私には不可能だった。今だって、鉛筆でだって書ける気がしない。結局私のクロスステッチは、真ん中に大きく、歪んだ星形が一つ、しかも枠線だけが描かれている。さらに言えば、その端っこは当時からほつれてピロピロとだらしなく垂れている。

 たしかに、一生の思い出です、先生。これが私の自分らしい絵です。

 アルバムの星形が認識できなくなるくらい燃えたのを見て、私はアルバムから切り取った自分の写真を炎に投げ込んだ。

   ●

 その日、私は年甲斐もなく泣き崩れた。大学3年の夏、周りが就職活動の一環としてインターンに参加する時期に差し掛かっていたのだが、私は全くやる気にならず、サークル活動に集中していた。
 母にはそれが心配でならなかったらしく、毎日のようにインターンにはいかないのか、なぜ動かないのかと聞いてきた。それにもうんざりしていたので、毎度それっぽい理由をつけて受け流していたのだが、ある日、事件は起きた。
 いつも通り、家で夕食を取りながらインターンの話をされた。
「この前は応募するって言っていたけど、どこか出したの?」
「出したよ。とりあえず、教育系と新聞社を一社ずつだけだけど」
「なんでそこなの? あなたには絶対商社が合ってるわよ。あなたらしく働けると思う。商社は出してないの?」
 いつもこれだ。なぜ母は私に商社を勧めるのかわからない。一度訊ねたことがあったが、あなたの興味分野もある、あなたらしく働ける、の二点を強く言われた。そうか、と思って説明会に参加したことがあったのだが、結果は思わしいものではなかった。たしかに、私の興味分野も、商社が取り扱う事業の一つには入っていた。しかし、それは商社の事業のうちのほんの一部の人々だけで、商社に就職した先輩に話を聞けば、その人は自分の会社がそういう事業をやっているという事実すら知らなかった。つまり、そこに配属される可能性はとても低いということだ。さらに言えば、その先輩も、説明会で話していた社員も、私の人間性や仕事観と一致しそうなものがまるでなかった。母はなぜ、それでも商社がいいというのだろう。私は自分には商社の説明会で、社員と馬が合いそうになかったことを伝えた。
「なんで簡単に決めつけるのよ。ちゃんと見てもないくせに」
 この人には私が判断したことに対して「そうなの」と受け入れる気持ちがないのだろうか。
「見たんだって。ああいう人たちとやっていける気がしないから。あんなにガツガツした空気感の中で仕事はできない。正直新聞社もどうかとは思ってる」
 正確には覚えていないが、確かそんなことを言ったときだったと思う。
「あなた、なんでそんなに自分を卑下するのよ。今までいろいろやってきたじゃない。サークルだって自分で選んでやってきたんでしょう? 結果も出したんでしょう? 受験だって最終的には上手くいったじゃない。あなたに足りないのは『自信』ね。謙虚は美徳かもしれないけど、行き過ぎると周りに迷惑をかけるし、自分にも毒よ」
 これが引き金になった。胸がぎゅうっと締め付けられ、鼻先がつーんとし始め、そして涙が止まらなくなった。ぎゅうっとなった胸の内側では、毒々しい何かが渦を巻いていた。普通は感動して喜ぶところかもしれない。そんなことを思ってくれていたなんて、知らなかった。ありがとうって。
 何も言えず泣いている私に、母は言葉を重ねた。母は私が母の愛に気づき、感激して泣いたと思っていたようだった。しかし、重ねられた優しい言葉は、研ぎたてのナイフとなって私の胸に突き刺さった。そして私の胸を抉り、かき回した。さらに続けられた優しい言葉は、その傷口に手を入れ、心臓を直接鷲掴みして握りつぶした。
 もうこの人とは話せない。母の追撃がやんだのを機に、私は逃げるように自室へと帰った。

   ●

 そんなことを思い出しながら、当時着ていたリクルートスーツの胸部をはさみで切り取った。私の心臓を取り出して保護するために。もう誰にも潰されたくない。今度は胸部だけ切り取って満足したので、本体も切れ端も同時に炎に投げ込んだ。燃えて徐々に形を失っていくそれは、リクルートスーツからただの布へ、ただの布からただの燃えカスへと変化していった。もう、それはリクルートスーツではない。
 激しく燃え盛る炎を眺めていると、不思議と落ち着いた。美しいな。この炎は、私の味方でいてくれている。私も、この炎に身をゆだねたら楽になるだろうか。そんなことを思いながら炎を見つめる。赤い。熱い。煙ももくもくと上がっている。大した描写ができない自分が恥ずかしくもなってくるが、しかし美しいものは美しいのだ。

 さて、次の手順に移ろう。
 実家に入り、用意していた灯油をぶちまけて回る。あまりに臭いのですぐにでも外に出たくなったが、これも重要な作業だ。極力淡々と、儀式のように灯油を撒いていた。2階の奥から手前に撒き、階段を下りて風呂場や玄関、最後にリビングを通って庭に出る。灯油をかけ終えたところのすぐ近くには焚火がある。
 ここまで終えて時計を見ると、もう23時を過ぎていた。もうかれこれ3時間ほど続けていたことになる。あと一押し。焚火の中から、端がまだ燃えていない木を持ち上げる。それを、庭まで伸びている灯油に投げ込む。
 ボウッと音を立て、灯油に引火した炎はすぐに燃え広がり、家を焼き始めた。階段のところで引火の波が途切れてしまわないか不安だったが、すぐに2階の私の部屋からも火が上がっているのを見て安心した。ガラスが割れ、破片が飛び散ってくる。さすがに危ないので一時敷地外に退避してガラスの飛散が落ち着くのを待った。みるみるうちに燃え上がる家を眺めていると、焚火以上のスケールと火の勢いに心を奪われた。
 そういえば、林養賢は燃える金閣を見てどう思っただろうか。本人は「世間を騒がせたかった」「社会への復讐のため」などという供述を残しているらしい。三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析していたという。
 実際のところはわからないが、燃える金閣は美しいことだろう。豪華絢爛なあの外観。足利義満の財力と権力の象徴。それは、まさしく強者がその強さを極めた瞬間を形に残したものである。それが炎に包まれて崩れていく。燃え盛る炎と金色の輝き、さらにその金が炎を反射していくだろう。想像だが、そのコントラストは絶対に美しいはずだ。そして、権力の象徴たる金を焼き尽くす炎は、反権力を象徴するという意味すら持つことになる。
 金閣には劣るかもしれないが、眼前で焼けていく実家も美しかった。私にとっては抑圧の象徴である。実家を焼くのは、今回の計画の中でも最も重要なポイントだった。それがうまくいったので、私はとても満足していた。

   ●

「うわっ、火事だ!」
 おれは激しく燃え盛る家を見て思わず叫んでしまった。なぜこの家が燃えているのか。119番に連絡をしようとポケットから携帯を出した。庭に誰か女性がいるらしいのが見えた。ここの家の人だろうか。だとしたらあいつの親だろうか。
「あの! 大丈夫ですか!」
 急いで駆け寄り、敷地の外側から声をかけた。その女性は、こちらに振り向くと、にこりと笑った。その笑顔に違和感を覚えた。
「そんなとこに突っ立ってないで! 家燃えてるから! 早くこっちに!」
 必死に声をかけても、彼女はただ笑っているだけで動こうとしない。彼女の背後で、家の中で何かが崩れ落ちた。。早くしないと彼女の方に家が崩れ落ちてくるかもしれない。彼女の周りにはガラスの破片も飛び散っている。
「くそっ」
 全く動こうとしない彼女に業を煮やし、おれは彼女のもとに駆け寄った。敷地に入り、燃える家を避けるようにして庭に入った。彼女は庭に来るおれをずっと見ていた。やっと彼女の前に到着して手を引こうとすると、彼女は言った。
「やっぱり数分遅刻だね」
「は? とにかく、早くここから出ましょう! 死にますよ!」
「いいんだよ、これで」
「なんでですか! 死にたいんですか!」
「私は死なないよ。大丈夫」
 一向に話がかみあわない。この人、頭がどうかしているのだろうか。また家の中で何かが崩れる音がした。
 それに驚いて気を取られた瞬間、彼女はおれの口に何かを放り込んだ。彼女があまりに急に動き出したので、それにも驚いて口を開けてしまった。その何かはスムーズに、まっすぐに飛び込んできた。彼女は、慌てて後ろによろめいたおれの頭と顎を抑えて固定し、顔を近づけてきた。
「フゥッ」
 勢いよく鼻に息を吹きかけられる。
「ウグァッ」
 頭を後ろに反らしながら尻もちをついた。もう何が何だかわからない。さっき何かを投げつけてきたのは、このためだったのだろうか。
 そこまで考えて、衝撃的なことに気付いてしまった。口の中に、今、何もない。飲み込んでしまったようだ。何を飲んでしまったのか。明らかに頭から血の気が引いていくのを感じる。
「おい! 何か飲み込んじゃったじゃねえか! 何を投げてきたんだ!」
「あ、よかった。ちゃんと飲んでくれたんだ。いやあ、これ犬に薬を飲ませるときの方法なんだけどさ、人間にもできるんだねぇ」
 意図的に何かを飲まされたことに、さらに恐怖心が湧いてくる。
「まぁせっかく飲んでくれたことだから種明かしすると、それ即効性の麻痺薬なんだよね。ポケモンみたいじゃない? あ、でもあの麻痺薬は麻痺から回復する薬だから逆か。こういうの、意外とあるんだなって思ったよ。どう? 効いてきた?」
 確かに、立ち上がれない。
「何してくれてんだ! しかもあんた誰なんだよ! いきなり見ず知らずの人間に薬なんか飲ませやがって」
「見ず知らずとは酷い言い草だね。私たちはもうずっと昔からの……あ、でもそうか、この姿になってからはそうだね。見ず知らずって言われても仕方ないかな」
「何をわけのわからないことを……もうあんたなんかに構ってはいられない。おれは約束があるんだ。早く動けるようにしてくれ」
「約束? もう果たしたじゃない。私に会いに来たんでしょう?」
「違う! まずおれが会いに来たのは男の友達で……えっ」
 大火事が起きていたのですっかり忘れていたが、おれには約束があった。昔の男友達に呼び出されたのだ。もう何年も連絡を取っていなかったので驚いたが、たまたまSNSの「知り合いかも?」の欄に出てきたから懐かしくなった、という誘い文句に、何の疑問もなく承諾してしまった。集合場所は、ここだ。彼の実家があった場所。今も両親は引っ越していなかったのか、などと思いながらここに向かってきたのだった。そうして到着してみると、その待ち合わせ場所が大炎上していたのだ。
「おまえ……令なのか?」
「そうだよ。面影は残っちゃってるでしょ?」
 彼女を一目みたときの違和感の正体はこれだったのだ。おれは彼女を知っていた。だが、おれが知っていたのは、男だった。男のはずの令が女装をしている。いや、服装だけではない。顔は確かに当時の、あるいは男だった頃の面影を残しているが、それは紛れもなく女性の顔だった。

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「なんで……」
 彼はそこで言葉を切った。正直、私が逆の立場だったらわからないことだらけだと思う。疑問に思えることはいくらでもあるだろうから、それだけで言葉を切られてしまうと、何を聞かれたのかがわからなくなってしまう。
 なぜ私が彼を呼び出したのか?
 なぜ私の実家が燃えているのか?
 なぜ私は燃え盛る家の庭に立っているのか?
 なぜ私は彼に薬を飲ませたのか?
 なぜ私は性転換をしたのか?
 ざっと考えただけでも5つはある。どれを聞きたいのだろう。しかし彼はそれ以上言葉を続けてくれなかった。
「何がなんでなの? ちゃんと言ってくれなきゃわからないよ。それとも、もしかして薬が口元まで効いてきちゃった? これ、足から効いていくように作用するっていう特殊なものだったんだけど、すごいね。こんなに早く体全体に行き渡っちゃうなんて。じゃあ仕方ない。あなたが気になってるだろうことについて、1つだけ教えてあげる。なんでこんなことをしたのか。それはね、私が、昔の私と決別したかったからだよ。昔の私の嫌な思い出を全部この世から消し去りたかったの。これで私は自由になれる」
 彼の目が恐怖に怯えているのがよくわかる。体も小刻みに震えている。どうにかして動こうともがいているのだろうか。
 ここまでのことをしておいてあまり信じてもらえないかもしれないが、私はサドなわけでも、グロテスクなものが好きなわけでもない。彼を見ていたらどんどん罪悪感が湧いてきた。このまま彼をずっと見ていたら、やるべきこともできなくなってしまう。それに、時計はもう0時に近づいている。
「ごめん。時間がもう来ちゃった。本当はもっと話したかったけど、もうこれでおしまいにするね。じゃあね」
 私は汗でじっとりとした彼の脇に手を滑り込ませて引きずった。人を1人運ぶのだし、性転換して筋力が相当少なくなっているのだから、かなり重いだろうと予想していたが、思ったより軽かった。彼がガリガリだったのだ。これは運動した方がいい。ちゃんと筋肉をつけないと危ない。最近の災害級の台風に煽られたら彼は飛んでいってしまいそうだ。
 そんなことを思いながら、今度は彼を抱き上げる。さすがに持ち上げるのは重かった。
 いっせーの、で彼を投げる。もちろん、庭から家へと続く炎の中へだ。
 炎の中から、叫びとも呻きともつかない音が聞こえた。おそらくは彼の声だろう。だが私はそれどころではなかった。彼の薄手のセーターに、私の服のボタンが絡まってしまったせいで、右手だけ炎の中に引き込まれてしまったのだ。あまりの暑さにアッと声をあげ、無理やり右手を引っ張った。しばらく格闘した結果なんとか右手を救出できたのだが、右手の皮膚はただれていたし、着ていたシャツが少し焼けてしまった。このまま歩き回ることはできない。シャツは捨てて、明日どこかで服を買おう。
 やるべきことを全て終えた私は、ゆっくりと家を出た。ちょうど0時になった。それと同時に、実家を支えていた枠組みが庭の方に崩れ落ちていった。あと少しでも遅かったら、私も下敷きになっていたところだった。

 若いころのトラウマほど、消えにくいものはない。若ければ若いほど、小さなことで人は傷つき、そしてその記憶を抱えながら生きていく。いつか大人になって、時間が流れることで忘れてしまうものもたくさんあるだろう。大人になるにつれて様々なことを経験し、そして過去のトラウマを乗り越えることもあるだろう。しかし、そのどちらもできないトラウマもある。これを忘れたり、乗り越えたりするには、並大抵の努力では足りない。もっと大きなもの、決定的なものが必要だ。私は、その方法をずっとさがしていた。ちょうど、元号が新しくなるという。新しい元号は「令和」である。まさしく私の時代がやってくるのだ。そう考えたら、どうしても私は人生をやり直したいと思った。昔のトラウマを全て捨て去り、全く新しい私になって再スタートを切りたいと思った。そう思ってこの1か月間、ずっと準備をしていた。

 万事うまくいった。

 新しい時代の幕開けだ。

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 令和元年5月1日 11時34分配信 朝売新聞電子版
 1日9時すぎ、新宿区四谷1丁目の一軒家が燃えているのを近所の人が見つけ、110番通報した。発見時、家はすでに鎮火していたが、全焼しており、庭から男性とみられる1人の焼死体が見つかった。警察が遺体の身元や出火原因を調べている。

 令和元年5月1日 19時04分配信 産京通信
 都内で男性の焼死体が発見された件で、警察はこれを殺人事件と断定した。遺体の男性は平野成太へいの・せいたさん。解剖の結果、平野さんは麻酔のようなもので体を動けなくさせられた後、火に焼かれたものと見られている。

 令和元年5月2日 プチテレビ 昼のワイドショー『ミヤノ屋』
「えー、昨日、元号が変わったその日に、悲しい事件が起きてしまいました。男性の焼死体が発見されたとのことです。現場のプチ野くーん?」
「はい、えー、現在、焼死体が発見された現場に来ております。亡くなった平野さんはこちらの家に住んでいたわけではなく、ここは別の方のお宅だ、ということです」

 令和元年5月3日 14時56分配信 毎同ニュース
 1日午前に男性の焼死体が発見された事件で、警察は31歳の和田令容疑者を指名手配したと発表。和田容疑者は、男性が発見された家の本来の住人の息子だとのこと。和田容疑者は現在も逃亡中である。

 令和元年5月7日発売 週刊金曜日
 1日午前に男性の焼死体が発見された事件について、新しい情報がもたらされた。解剖された遺体の服には、不自然に引っ張られた形跡と、ボタンの欠片が発見されたという。さらに、現場近くの公園のゴミ箱に、右袖のボタンが取れ、右袖だけが焼けたシャツが発見されている。警察は、これを犯人への手がかりとして捜査しているようだ。

 令和10年5月1日 12時過ぎ 都内某所
「今日で令和になってちょうど10年か。早いもんだなあ」
「そうだな、そういえば令和になったときって、なんだか大きな事件なかったっけ」
「あったあった。事件自体はよくある殺人だったんだが、令和になって初めての殺人事件で、しかも犯人が全然見つからねえっていう」
「そうそれだ。事件があった翌日かそこらには犯人がわかったんだろう? なのに捕まえらんないとは、警察ってのは本当に無能だねえ」
「指名手配までしてんのにな。誰も見かけたりしないのかね。だって細かい情報と写真まであるんだぜ。なんでも、犯人の右手には大きな火傷の痕があるとかなんとか。写真もこの前交番で見かけたが、なかなかの男前だったぞ。尾崎豊系だ。ありゃ女が見たら惚れるね」
「尾崎豊って、平成とび越えて昭和の歌手じゃねえか」
「あっはっは、これが平成ジャンプってかっはっはー! あーあ、お姉さん、ウイスキーもう1杯! やっぱ昼酒はたまんねえなあ」
 右側から声をかけられたその女性は、グラスをわざわざ左手で受け取った。


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