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『私いつまで女子でいるつもりだ問題』

ジェーン・スーさんのエッセイ『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』を読んだ。話題作だから名前だけは知っていて、そのタイトルからいつまでも”女子”であろうとする人を叱咤するような内容なのかしら…と思っていた。

でも全然違った。

特に私が好きなのは「カワイイは誰のもの?」という章。

可愛らしさとは無縁の女たちは、女としてではなく性別を超えた「一個人」もしくは「人間」としての評価軸での通行手形を手に人生関所を悪戦苦闘して通過します。彼女たちは自力で難関を突破するたび人間としての自信をつけ、女の可愛らしさなど弱者のレッテルと同義に思うようになるのです。
(中略)
私もそうやって可愛いと言われることを拒否し続けてきましたが、自分の中にある可愛がられたい願望を素直に自認できるようになりました。

ジェーン・スー『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』p.54-62「カワイイは誰のもの?」要約

私はその箇所を読んだときに、「あ、この手の矛盾を抱えている人は私以外にもいるんだ!」とすごくホッとしたのである。


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初めて好きな人の腕の中で眠った時、変な話かもしれないけれど、そのポジショニングに気恥ずかしさを覚えつつも嬉しく感じたことを思い出した。私は身長も高いしこの性格も相まって、かわいいという言葉を使って褒められることはほとんどない。私の中では「カワイイ=自分より弱いものに対して投げかける言葉」というひねくれた認識があったものだからそれで良いと思っていたし、それどころか相手から向けられた「かわいいね」という言葉にそのようなニュアンスが含まれていると(過敏にも)察知した時には反発心まで覚えていた。

しかし、初めて好きな人と同じベッドで眠ろうとした時、彼は当たり前のように私を包み込む姿勢をとった。あまりにもリラックスした様子で当然のようにその姿勢を取る彼を見てその人にとって私がかわいがる対象に当てはまるのだと気づいた時、それを嫌だと思わない自分に驚いたのをよく覚えている。ムズムズするようななんとなくの気恥ずかしさはあるものの、気持ちとしては純粋に嬉しかったのである。それも、「好きな人にかわいがられた」ことに対する嬉しさだった。

そしてその時、不快に思うどころか純粋に嬉しいと思う自分を認識して、今まで自分が認識していたのと違う自分が顔を覗かせたことに驚きつつも、意外と素直にその存在を認めることができたのである。というか、そういう自分を許したくなったのだ。

守られたい可愛がられたいと望むなんて私らしくない、そんなのいらないと半ば意地になってその思いを排除しようとしてきたけれど、その気持ちを持つこと自体はもしかしたら悪ではないのかもしれない、と思いたかった。

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ジェーンさんは、カワイイに対する私のひねくれた認識も、実はかわいいと思われたいという思いも、「私もそうだったよ」どっちもまるっと肯定してくれた。私は自分の中の矛盾を許せなくてこの2つの気持ちがあることを認めるのには抵抗があったのだけれど、人生の大先輩が認めてくれるのであれば、それでもいいのかなとも思えるようになった。

・・・

正直まだ完全にしっくりきているわけじゃないけれど、かわいがられたいという気持ちを自分で否定してなかったことにはしないようにしようと思う。だってあるもん。

そもそも、世の中も私の気持ちも、そんなに白黒つけられることばかりではないはずなのだ。

それでいいですよね、ジェーンさん!


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