駅で男は目覚めた。

駅で男は目覚めた。生まれてから何度目の目覚めなのかはわからなかったが、生まれてから何度目かの目覚めであることはわかった。これは生まれてから初めての目覚めではない。そしておそらくは、生まれてから最後の目覚めとなることもないであろう。そのような予感が男の重いまぶたを押し上げようともがいていた。仮に最後の目覚めであっても、目覚めるときにそれが最後の目覚めだと意識するものはそう多くない。ただ眠るときに二度と目覚めることのない予感に支配されつつ、まぶたを下ろすだけだ。男は、今そうしても良かった。目覚めてすぐ、眠りについてしまうことを選ぶ余裕が男にはあった。眠りについてすぐに目覚める余裕は持ち得ないのだが、永遠の停滞と混同される目覚めと眠りの曖昧な往復のなかでは、それも些細なことであった。男はまぶたを意識的に下ろす。意識的に下ろすときに、男が眠りに入ることは多くなかった。たいていは無意識的に下ろされるとき、男は眠りに入ることを許されているような気がした。男は意識的に眠ることがなかった。眠る意志も、眠る意思もなく、眠っていた。眠る覚悟もなかった。「おれではない誰かの意志で、おれは眠っているのではないか」 男は度々そう考えていた。男は夢の中でそんなことをよく叫んでいた。目覚めているときには、どんなに小さい声だとしても、そんなことを口に出すことはできないでいた。そんなこと。そう、そんなことでしかない。おれがおれの意志で眠ろうと眠るまいと、目覚めようと目覚めまいと。男の思考は男のまぶたほど勤勉に、また定期的に働くことはなく、いつも中途で停止し、霧散していた。なにも残るものはなかった。引き継がれるものはなかった。目覚めの中断が眠りであり、眠りの中断が目覚めだとして、前の目覚めと今の目覚めに何らの連続性もなく、前の眠りと今の眠りに何らの伝統もなかった。それはおそらく今の目覚めの次に来るであろう目覚めに対しても、今の眠りの次に来るであろう眠りに対しても、誰にともなく要請される共通事項であった。その非連続性こそが、眠りと眠りの関わりであり、その伝統の棄却が、目覚めと目覚めの共有バッジではなかったか。男は一日ということを信じられずに、これまで生きてきた。これまで、当たり前のように周囲の人は一日に一度ずつの目覚めと眠りを配当していた。しかし男は、他の人の一日分に幾度もの目覚めと眠りを割り当てていたし、ときには一度の目覚めと眠りが他の人の幾日か分に相当することも度々であった。まるで自分は他の人間の何倍もの時間を生きているようにも、何分の一かの時間しか生きていないようにも思えた。あくびが出るような一日が、こうして男の周囲で過ぎていった。昨日も、今日も、そして明日も。

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