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ミルクを愛する余白を作る。

その日、僕は、生まれて初めて大きな映画館でなく、劇場へと足を運んだ。

その映画の存在は約1年前。
あるシンポジウムにて小耳に挟み、その後何度か情報を得てはいたもののなかなか上映のタイミングなく、手をこまねいていた。

好きが高じて淡水魚の図鑑めいたものを作ってしまうくらいには重度の淡水魚オタクであるところの僕にとって、巡ってきたチャンスをみすみす逃せるはずもなかったのだった。

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ミルクの中のイワナ(A Trout in the Milk)とは、作家ヘンリー・デヴィッド・ソロー「ウォールデン森の生活」の元となる手記に記されていた一説。

川の水で牛乳を薄める酪農家に対し、「状況証拠というものは、牛乳の中に鱒を見つけたように、非常に強力なものだ」と述べ、

転じて「状況証拠しかないが問題の存在は明白である」ことを意味する言葉だそうだ。

僕はこの言葉は知らなかった。

ただ、とろんと湛えられた真っ白いミルクの中をゆっくりと泳ぐイワナの姿を想像し、その非現実的で神秘的な光景を思い描くと何故だかとても自然な取り合わせのように感じられていたのだった。

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あたかも魚類畑の人間のように擬態している僕ではあるが、どちらかと言うと美術畑出身。

もっともらしく、今回の映画に対して批評を論じてみようと思う。

1時間ほどの上映時間、僕は終始見入っていた。
深山幽谷の水の中、滑らかな魚体がゆらめく姿に見惚れる他なかった。

とにかく映像美。

と言うよりも、自然美。

色、動き、音。

日本の自然はかくも美しく、その中で日夜繰り広げられている生き物の営み。

その気配を、研究や技術、あるいは口伝から紐解いていく。

「証言者」たちの話はイワナという既知の魚の、未知の姿の輪郭を形成していく。その高揚感にシンクロするように高鳴る音楽。

やがて人とイワナのこれまでと、これからの話へとシフトしていく。
今日、イワナに限らず生き物とどう接して生きていくのか、生活していくのかは僕たち人間にとって大きな課題になりつつあるように思う。

両者にとって不利益を被らない、ないしは利益を生むような距離を図り直さなくてはならないだろう。

現代の生活様式、社会情勢とこれまでの歴史を照らし合わせ、古き良きを学び、新しき技術で次なる道を照らす。

その大切さ、可能性。そして何よりも必要性と危機感に迫られる現実はまさに「A Trout in the Milk」であった。

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一方で、僕が気掛かりなのは「この映画を見る人間」だ。

実際、劇場には僕を含めて20人ほどが座っていたが、年齢層の平均値が40代くらいに見受けられた。その全員が男性であったように思う。

また、内容は専門家や研究者の方々の証言がメイン。
つまり固有名詞や専門用語の割合が高い。ゆえに、事前知識がかなり求められるため、少々の生き物好きでも荷が重い内容のようにも感じられた。

つまるところ「魚が大好きで知識もある中年齢層の男性」という非常にピンポイントな客層に鑑賞者が限定されているのではないか。

作品製作においてターゲットを定め、その層への最適解のアプローチを模索することは当たり前のことであり、実際にその狙いが成功しているのだと僕は思っている。

自分の感覚でもイワナを含む渓流魚が好きで、釣り人の割合が比較的多い層は上記の人種だろう。

しかしながら、僕はこの映画の内容はもっと広い世代の人種にアプローチしていきたい素晴らしい内容だと思う。
同時に、それをしていくことが現代における淡水魚、ひいては生き物や環境に関わる発信をする人々の義務だと強く感じている。

用語の説明をいちいち挟んでいては上映時間が何時間あろうと足りないだろうし、まるでお門違いな指摘であると思われても仕方がないだろう。

だが、僕はさまざまな職種や業種の人間が手を取り合ってその無理難題を実現していく必要が出てきていると感じている。

僕自身そういった「魚類畑の人間ではないが、魚が好き/守りたい思いを持ち、自分の専門分野を駆使してより良い未来へ向け協働する」人間の一人になりたいと思っているし、現時点ではそんな力量も人脈もない現実が、ただただ歯がゆいのである。

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パンフレットには映画で話されている証言と共に補足情報が記載されている。

ここでは前提情報であるイワナのことをはじめとした様々な情報や解説、製作者側の思いなどが載っていて、映画の内容をより深めてくれる。

必ず映画を見る人は手にとってほしい一冊だ(この本を読めば上記の前提知識の問題はかなり緩和されるだろう)。

僕はいちクリエイターとして、製作者の「熱」を感じられる作品が好きだ。

この映画にもパンフレットにも、そんな温度を感じられる。

総評すると「素晴らしい作品」の一言に尽きる。

世界は元来、ミルクのように不透明なものである。
技術革新によって人々はあたかも世界のほとんどを解き明かしてしまったように錯覚しているが、実際は見えているものなどほんの少しなのだ。

今、この不透明なミルクを楽しんで味わえる「余白」を、社会・経済・心の中に用意していく必要があるはずだ。

多くの人間が知っているもの/わかりやすいものばかりを追い求めると、身に降りかかる危機に気づけず、世界はきっと手遅れになってしまう。

ちょうど、ミルクの中からイワナを見つけた時、見つめるべきは美しいイワナではなく、嵩増しされたミルクの方であるように。


ニッコウイワナ Salvelinus leucomaensis pluvius(Hilgendorf,1876)


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