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ファッションと、アーユルヴェーダ〜みためと中身の一致

私、みためを気にするほうだと思う。
理由はシンプル、自分の機嫌を良くするためです。

それに尽きる。あーちがったな〜今日の服!て思って(社交な場でも一人カフェでも)自分が今ココに集中できないから。

人並以上のファッション熱量を「それって自分の外見や能力に自信がないからなのかなー」と冷静に見ていた自分もいましたが、ヨガやアーユルヴェーダ実践など内側を整えてもその追究は衰えない。

どころか本来の自分と一致、は内側外側との関係に通じるのでは、と確信する一方です。

過去記事の自分と一致論はこちら↓

英語に自信がなかった頃のこと。

友人どころが知り合いさえゼロからスタートした海外暮らし。大人になってからの『友達』って誰でもいいわけじゃない。

拷問のような素敵な人だらけのイベントに出向いても、だんまり。言葉が通じなければ中身を披露する場面にさえ進めないことを痛感しました。

本来おしゃべりな私が、無口な人になるしかないある日、気づいたのです。

ネイティブな彼らにしたら別に流暢な英語が聞きたいわけじゃない。ただ異文化的で魅力ある面白い人と話したいのだ、と。

ならばそれ打ち出さなければ私の居場所はない!それまでセーブしていた「自分らしさ全開の服」への遠慮をやめたのです。

どんな映画が好きで聴いてる音楽はこんな感じでヨガが好きでこっち系カルチャーに影響受けました!・・・をただ歩いている間に発信できるのが服というツールだったらしい。

メルボルンという土地柄、道ゆくレジェンドゲイな方々に、あなたゴージャスね!ラブ♡と声にしてもらう日々は何よりの自尊心セラピーでした。

とはいえまわりの評価より、自分の機嫌が上向くことに、その真髄はあります。

図書館の洗面台やトラムの窓に映る姿に「今日の自分悪くない♡」その魔法はアウェイの地で自分を守ってくれました。

自分らしい服+ごきげんオーラで英語カバーしているうち、君に合いそうだから、とアーユルヴェーダ瞑想の先生のお屋敷の一室を紹介してもらったのです!相場もしらぬ憧れのエリアでした。

言語不要のツールとしての自己表現の衣。

やはり外に提供する情報ツールとして、中身と一致させるとやはり話が早い。どんどん繋がりたい人たちとコミュニティが広がる。

的外れなナンパや、英語聞き返すたびナメられてたお店など、不利な立場を優にカバーできるのがファッションの力、の発見でした。

日本にいる時から「え誰得?」と揶揄されるほど(いや自分でも思ってたよ)クセの強い服晒しがちな自分、ここで報われたとおもう。

”趣味じゃないけど浮きたくないからこれ着てる”自分でいると、目的地へたどり着くまでの時間とエネルギーが余計かかるのかもしれない。

たとえばモテ服に釣られた人にモテたところで私、きっと幸せじゃないから。

いつどんな時も「それを着ることを選んだ自分」を意識しはじめると買物も変わってきました。

悪くはないんだけど・・なら買わない。
良くならなきゃ買わない。

試着室の鏡に映る姿が、通常+α にならない服はどんなに好みでも、素材が良くても、セールでも買わなくった。感情がうごくか。

この値段なら買い!とか妥協して家のクローゼットにお迎えしても、そう出番はなく決して安くなかった買物になるんです。

そして履き心地の良さ。

着心地の良いものに包まれてると、寛容さが出る気がする。他人にも、じぶんにもね。

だってなにかに頼らずとも一人で勝手に心地いいんだもん笑

アーユルヴェーダのひとつの基準「自然界にあるもの」。
やっぱり私それが好きで、シルクや綿100%は肌から歓喜の声が上がります。

首がチクチクする、カカトが痛い、など体を不快にさせる服を着ていた頃、自分を優先できてなかったように思います。それ超えて洒落キバリたい時もアリ、だけど毎日でなくていいなと。

20代で「冷えとり健康法」にハマり当時外側はファストファッションにお世話になりながらも、肌に触れるものはシルク!を数年かけて揃えていきました。

以降、オール天然素材じゃなきゃ!にこだわってた時期を経て、今は一線を超えた”グッとくる化繊”は取り入れてます。(それでもアウターのみかな)

アーユルヴェーダ的ファッションてどんなものを浮かべますか?

オーガニックコットン?ヨガパンツ?倫理的調達で誰も搾取されていないくて・・・・エコでハッピーでピースで???

私なりの答えは”自分らしさ”が発露される服装かなと、一周まわって着地しました。

オーガニック認証、エコなブランドイメージ、コンセプトが素敵・・それらって頭の声なんですよね。袖を通した時に発される体の声ではない。

かくいう私も「これ廃材リサイクルの生地で」とか”己のエコ”を買物の理由にしてきた方です。知るは大切。むしろ前提。それでもその正義のみを初期衝動だとしていたら、ファッションにおいては死だと思う。

恋に落ちるのに理由がないように、これを纏いたい!て湧き上がるドキドキって、もっと本能的なんじゃないかな

その本能に忠実に纏ってる人って、特有の輝きが漏れてるなぁと見惚れる。
自分ウケの追求が、結果モテ服。

その”欲しい”はまず自分に持続可能なのか。

『断捨離』良き行い的な響きですが、まとめ捨て賛辞に違和感があるんです。本来、勢いつけずとも心が離れれば大義名分に頼らず、お別れしてくのが自然の摂理なのではないかな

断捨離が定期イベント化してたら、それ購買と本当の欲求が一致していないのだと思う。

無駄な買い物って一番エコじゃない。

ストレス反動、穴埋め行為だったり、心の声を聞いてない欲求のズレって、その連続のLIFEにも具現化しちゃう・・・

いつだって、戻るところは本来の自分との一致。
本来の質の自分を知ることが、衣食住の全てにつながっている。

着続けたい服を選ぶことが、自分にも、地球にもやさしい。

自分にやさしくしてる人って、周りにもやさしい。

本当に中身と外見が一致すると、ごきげんに展開するのだと思います。

瞑想・ヨガ・食生活・・整え。それらがスタンダードになっても、まだできることがある喜び。

更新する楽しみもあるパワーアイテム『衣の魔法』として

今また、覚えておきたいと思います。






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(エシカルと着たいのバランスがわからなさすぎて廃材や天然素材つかって最近自分で作ってます。)
















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